ゆず 20周年シングル回顧2~2001-2006~

21世紀を迎えると再び明るい方向性に回帰。今までにない遊び心を見せたり、4週連続1コインシングルリリース、3曲A面など様々な実験的試みや挑戦もこなしながら順調にキャリアを重ねていった。04年には代表曲となる「栄光の架橋」も生まれた。気が付けば2人は「もうすぐ30才」であり、デビュー10周年も迫っていた。

この時期までは北川のA面採用が多いものの、要所要所では岩沢曲がA面を飾っており、両A面の2曲とも岩沢曲という事もなんと2度もあった。 「ゆず 20周年シングル回顧2~2001-2006~」の続きを読む…

ゆず

ゆず 20周年シングル回顧1~1997-2000~

1997年にインディーズデビュー。トイズファクトリー社長の稲葉貢一がゆずのために設立したセーニャ・アンド・カンパニー(SENHA&Co.)に所属してのインディーズデビューだった。インディーズではミニアルバム『ゆずの素』1作のみで、98年には2ndミニアルバム『ゆずマン』でメジャーデビュー。トイズファクトリーではなく、セーニャ・アンド・カンパニーのままメジャーデビューした。セーニャにはその後何度か別のアーティストが所属した事もあったが、どれも単発~数年程度で離れており、実質的にゆずの専属レーベルとなっている。ゆずのCDの品番が「SNCC」で他にほとんどこの品番を使っているアーティストを見かけないのはこのためだ。

シングルを出したのはインディーズデビュー、メジャーデビューの後の98年6月3日。ミニアルバム2作の頃は無名で、「夏色」のロングヒットで世間一般にゆずの名が知れ渡った。一般的に1stシングル=デビュー作と捉えられがちなのでゆずのデビューは98年の夏という認識が強く、07年に10周年、17年に20周年というのは正しいんだけど何か1年早い気がするのはこれが原因だろう。

メジャーデビューと同時に寺岡呼人がサウンドプロデューサーとして主にアレンジ面を支えた。先に曲を書いていたのは岩沢だったらしく、このためインディーズ時代は岩沢曲がメインだったがメジャーデビューと同時に北川が才能を発揮するようになり、すぐに北川曲がやや多めという配分になった。

この時期は連続でスマッシュヒットを連発。そのどれもが20~30万台にとどまり、ミリオンヒット全盛期の90年代末期だったが、当時の基準における大ヒット曲は出なかった。アルバム『ゆずえん』は唯一ミリオンセラーを記録しているが、大ヒットが出ないことで逆にピークを作らず、安定した人気の土台を作れたのは大きかったと思う。

ただかなり連続でリリースしていたのでTVには出なかったもののかなり多忙を極めていたようで、99~00年頃、アルバム『トビラ』にかけては一時的に内省的な楽曲を立て続けに発表。基本前向きで明るい曲をメインとするゆずが最もやさぐれたのがこの時期となった。
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ゆず

19 シングル回顧~1998-2002[19→23]~

岡平健治、岩瀬敬吾で結成されたフォークデュオ「少年フレンド」、そこにイラストレーターの326が作詞&ビジュアル(アートワーク)担当として加入して3人組としてデビュー。326のその後の扱いと解散時の状況から事務所が発表していた公式のヒストリーと実際の結成経緯には恐らくいくつかの相違があるものと思われるが、公式発表では3人は意気投合として19を結成したとされている。デビュー時点で326が20歳になっていたが、2人は19歳だったので19だったというのが定説だが明言はされていない。

3rdシングルまでは一貫して326がジャケットイラストを担当。ただし326は歌や演奏には参加していないのでライブパフォーマンスは岡平健治、岩瀬敬吾というスタイルで活動。00年になると326は脱退させられてしまい、公式発表上もなんだか有耶無耶のまま19は2人組となり、いつの間にか326とは初期にコラボレーションしていただけの扱いにされてしまった。

そして02年には突如の解散。何かと大人の事情が見え隠れする…というか事務所との軋轢を感じさせる点が多かったが、楽曲面で見ても後期になるほど2人の音楽性はかけ離れていっていた。

2017.7  A面のみ昔公開していたものを全面改訂しC/Wを追加

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19

Every Little Thing シングル回顧5~2011-2016~

アルバム『CHANGE』で復帰した五十嵐充だったが、結局それっきり継続的に関与する事は無かった。『CHANGE』ツアーは無かったので、1年経過してから活動が再開された。『CHANGE』の穏やかモードを引き継いだのと、震災の影響もあってか、しばらくはかなり落ち着いたバラード系のナンバーが続き、アルバム『ORDINARY』はELTの中でも最も穏やかな1作となった。

一転して次のアルバム『FUN-FARE』では軽快な楽曲が増え、エレクトロ路線など新たな境地も開拓するようになった…が、20周年を前にしていよいよシングルヒットが全く出せなくなってきてしまい、20周年は前倒しで20年目に突入した2015年に大々的に掲げてしまう事となる。09年に出したばかりのベスト盤にその後のシングルを加えたコンプリートシングルA面コレクションをニューアルバム『Tabitabi』とセット販売のみで格安でリリースするなど奇をてらった戦略は失敗というほど売れなかったわけではないが、成功というほど売れたわけでもなかった。

以降は持田の結婚もあり、活動は緩やかに停滞していく。20周年を掲げていたにも関わらず全く歌番組には呼ばれず、かつて「うたばん」でそのオモシロキャラを開眼させた伊藤はバラエティの常連のような存在になってきて、公式サイトには音楽の情報よりもバラエティ番組出演の情報ばかりが並ぶようになった。しまいには新譜情報が発売目前まで全く告知されないようになるなど、プロモーションがほとんどされない、されないので未だかつて見た事ないような最低順位と最低売上を大幅更新する…という悪循環…。

なんとか2016年まで1年に1曲は何かしら作品が出るという状態をキープしたが…2017年は夏にようやく配信で新曲が1曲リリースされたのみ。バラエティ出演メインの状態が続いていて今後はどうなってしまうのか。20周年を越えて正直不安も残る状態なのも確かだ。 「Every Little Thing シングル回顧5~2011-2016~」の続きを読む…

Every Little Thing シングル回顧4~2007-2010~

この時期になると爽やかなポップス路線に回帰。、個性派極まっていた歌い方のクセが抜けてストレートな歌い方に戻った。CDで聞く分には歌い方がスッキリと落ち着いたように聞こえてはいたものの、08年7月の「とくダネ!」コーナーの「朝のヒットスタジオ」では「Time goes by」を原曲オケで歌ったため、出し切れない高音部分が悪い意味で話題になってしまった。

09年後半にはサウンドプロデューサーとして五十嵐充が復帰。あくまでELTは2人のままで五十嵐は外部参加という扱いだったが、久々の3人での楽曲制作が行われた。提案はエイベックス側からで五十嵐充も凄くやる気になっていたそうだが、ベストヒットツアーとベスト盤リリースを同時並行で行い、アルバム『CHANGE』発売とほぼ同時にそのツアーが終了。最後は五十嵐充もステージに登場し、ライブで共演もしたが、ツアー自体はベストヒットツアーだったのでシングル曲程度しか披露されず、『CHANGE』を引っ提げてのツアーは開催されなかった。その後1年近くライブもCDも出していないだけに、せっかくの五十嵐充とのアルバム制作は2010年に夏頃をメドにじっくり作っていけば良かったのに…。09年秋~10年春までの過密日程には謎が残る。 「Every Little Thing シングル回顧4~2007-2010~」の続きを読む…

Every Little Thing シングル回顧3~2003-2006~

徐々に枯れつつあった歌声が激変して個性的な歌い方を模索した結果、アコースティック路線へ転向していったELT史上最も激動期、かつ個性派路線だった時期。以前のイメージのままでいると変わり切った雰囲気を受け入れるのが至難だが、変化を受け入れることができるとこの時期は途端に名曲の宝庫と化す。

基本的に多くのアーティストの基礎売上は低下していく時期だっただけにELTもまた徐々に売上が低下していたが、この時期では「また あした」「恋文/good night」が前後の作品よりも目立った結果を残しており、TVで「fragile」まで代表曲を抑えて取り上げられるほどではないが、そこそこ知られた以降の代表ヒット曲として一定の認知は得ていると思う。 「Every Little Thing シングル回顧3~2003-2006~」の続きを読む…

Every Little Thing シングル回顧2~2000-2002~

99年3月31日のベスト盤『Every Best Single +3』リリース以降は、活動を休止。後に持田は「五十嵐さんの回復を待つ状態」とも語っている。00年年明けのリリース再開に向けて動き始めたものと思われるが、五十嵐充は以前のペースに戻る事が出来なかったようで、活動再開後、3rdアルバムリリースとツアーを目前に控えて突如脱退する事を発表。発表即日で脱退してしまった。

実際には99年末の紅白歌合戦出演前にメンバー2人は聞かされたとされている。残された2人は活動継続以前に今決まっている次のツアーをどうするのかの選択を迫られる事となった。あまり円満な脱退とは言えない状況だったようで、脱退時のコメントではELTも含めて裏方として曲を提供するような事を言っていたが、全く関与しなくなってしまった。それどころか、他アーティストへの提供も積極的に行われるような状況にはならなかった。五十嵐は後のday after tomorrowやgirl next doorのサウンドプロデューサーとしても参加しているが、どちらのグループにもメインの作曲者が在籍していて、ELT時代のように五十嵐が自ら楽曲を量産するような事は結局無かった。

2人になったELTだったが、2人ともバリバリ作曲するタイプではなかったので作家による提供が主体となったが、伊藤は主に編曲、持田は全面的に作詞を担当するようになった。しかし五十嵐が持田が歌うのを前提とした設定で曲を作っていたのに対して、2人になって以降は持田の高音ギリギリを攻めたキーの高い曲が続いた。さらに制作にも深く関与するようになり多忙を極める中で、喉に負担がかかる状況が続いたためか、持田の歌声は徐々に変化を遂げていった。 「Every Little Thing シングル回顧2~2000-2002~」の続きを読む…

Every Little Thing シングル回顧1~1996-1999~

1996年8月に彗星のごとくデビューし、間もなく大ブレイクしたEvery Little Thing。自分の曲を歌うボーカリストを探していた五十嵐充がアイドル的な活動をやっていた持田香織と出会い、デビューのための準備を開始。当初は持田ソロをプロデュースするつもりだったようだが、ユニットとしてデビューする事になり、最終的にギタリストとして五十嵐と知り合いだった伊藤一朗が呼ばれ、3人でのデビューになったという。

この時代は煌びやかなキーボードサウンド+ハードなギターというスタイルで、後々までエイベックス王道とされる音楽性の基礎のような存在にもなった。後にデビューしたday after tomorrowもgirl next doorも時流を取り入れながらも基本はこの時期のELTを彷彿とさせるような音楽性を軸にしていた。また両グループとも脱退後の五十嵐充がサウンドプロデュースしていた時期がある事も共通している。

続けざまに大ヒットを連発した一方で、あまりに早すぎるリリースペースに1人でじっくり作り上げていく制作スタイルを取っていた五十嵐充は徐々に疲弊。持田曰く「どんどん痩せていった」。限界は98年頃から見え始め、99年にはこのままでは3枚目のアルバムを作る事ができない状態にまで陥り、ベスト盤を出していったん休養に入る事になった。

09年『Every Best Single~COMPLETE~』リリース後にそこまでを執筆、
2016年20周年に合わせて全面改訂予定だったが、大幅に遅れ、2017.4~以降ようやく着手。

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JUDY AND MARY シングル回顧2~1997-2001~

大ブレイクを境にしてソングライターとしてTAKUYAがメキメキ成長、恩田快人は曲を一気に書かなくなってしまい、いつしかTAKUYAがバンドの主導権を握るようになった。作曲面に限らず、YUKIとの作詞の共作の増加、Additional Production by TAKUYA(『THE POWER SOURCE )→Album Concept and Additional Production:TAKUYA(『POP LIFE』)→Total Stage Concept by TAKUYA(『44982 VS 1650』)→Produced by TAKUYA、編曲:TAKUYA(『WARP』)とアルバムにクレジットされていた表記を見てもどんどんリードしていったことが分かる。
99年に1度活動を休止、解散は絶対ないと念を押してこの間に各自ソロ活動を行い、1年後に約束通りに復活。しかしそこから1年で結局解散となってしまった。完全にやりきっての解散、ソロアーティストとしてのYUKIの大成功もあって、再結成ブームの中においても再結成の可能性は限りなく低いものと思われる。不仲だったイメージが強いがメンバー間の共演が無いわけではなく、06~07年頃に高橋瞳のプロデュースをTAKUYAが担当した際に、ドラムに五十嵐公太を起用するなどもしている。 「JUDY AND MARY シングル回顧2~1997-2001~」の続きを読む…

JUDY AND MARY シングル回顧1~1993-1996~

女性ボーカルに男性演奏陣というソニーとしてはREBECCAに続く存在として大ブレイクした90年代を代表するポップロックバンドJUDY AND MARY。
結成の経緯が変わっていて、元々恩田快人が既に別のバンドでメジャーデビューを果たしている中で、サイドプロジェクト的に始動。インディーズで作品をリリースするもあくまでサイドプロジェクトだったので1度解散したが、恩田快人の中で熱意が高まって再始動となり、この過程で参加できなくなったギタリストがTAKUYAへと変わって現メンバーが揃った。
このため恩田・五十嵐はデビュー時点で既にアラサー、YUKIとTAKUYAは20歳そこそこと年齢にやや開きがあった。さらにビジュアルが4人ともバラバラで全く噛み合ってそうに見えないといういびつさも異色だった。

初期~中期は恩田快人がメインライターだったが、中期以降ソングライターとしてギタリストとして、プロデューサー佐久間正英の後押しもあって自我を開放したTAKUYAがメインライターへと切り替わり、末期には編曲プロデュースまでTAKUYAの名義になってしまうなど、バンドの主導権は極端な偏りを見せた。それゆえに完全にやりきっての悔いの全く残らない全力で駆け抜けた短くも濃い活動期間となり、再結成ブームの中においても再結成される可能性が最も低いバンドの1つでもある。

2017.3執筆、編集を経て2017.5公開 「JUDY AND MARY シングル回顧1~1993-1996~」の続きを読む…