Every Little Thing シングル回顧3~2003-2006~

徐々に枯れつつあった歌声が激変して個性的な歌い方を模索した結果、アコースティック路線へ転向していったELT史上最も激動期、かつ個性派路線だった時期。以前のイメージのままでいると変わり切った雰囲気を受け入れるのが至難だが、変化を受け入れることができるとこの時期は途端に名曲の宝庫と化す。

基本的に多くのアーティストの基礎売上は低下していく時期だっただけにELTもまた徐々に売上が低下していたが、この時期では「また あした」「恋文/good night」が前後の作品よりも目立った結果を残しており、TVで「fragile」まで代表曲を抑えて取り上げられるほどではないが、そこそこ知られた以降の代表ヒット曲として一定の認知は得ていると思う。 「Every Little Thing シングル回顧3~2003-2006~」の続きを読む…

Every Little Thing シングル回顧2~2000-2002~

99年3月31日のベスト盤『Every Best Single +3』リリース以降は、活動を休止。後に持田は「五十嵐さんの回復を待つ状態」とも語っている。00年年明けのリリース再開に向けて動き始めたものと思われるが、五十嵐充は以前のペースに戻る事が出来なかったようで、活動再開後、3rdアルバムリリースとツアーを目前に控えて突如脱退する事を発表。発表即日で脱退してしまった。

実際には99年末の紅白歌合戦出演前にメンバー2人は聞かされたとされている。残された2人は活動継続以前に今決まっている次のツアーをどうするのかの選択を迫られる事となった。あまり円満な脱退とは言えない状況だったようで、脱退時のコメントではELTも含めて裏方として曲を提供するような事を言っていたが、全く関与しなくなってしまった。それどころか、他アーティストへの提供も積極的に行われるような状況にはならなかった。五十嵐は後のday after tomorrowやgirl next doorのサウンドプロデューサーとしても参加しているが、どちらのグループにもメインの作曲者が在籍していて、ELT時代のように五十嵐が自ら楽曲を量産するような事は結局無かった。

2人になったELTだったが、2人ともバリバリ作曲するタイプではなかったので作家による提供が主体となったが、伊藤は主に編曲、持田は全面的に作詞を担当するようになった。しかし五十嵐が持田が歌うのを前提とした設定で曲を作っていたのに対して、2人になって以降は持田の高音ギリギリを攻めたキーの高い曲が続いた。さらに制作にも深く関与するようになり多忙を極める中で、喉に負担がかかる状況が続いたためか、持田の歌声は徐々に変化を遂げていった。 「Every Little Thing シングル回顧2~2000-2002~」の続きを読む…

Every Little Thing シングル回顧1~1996-1999~

1996年8月に彗星のごとくデビューし、間もなく大ブレイクしたEvery Little Thing。自分の曲を歌うボーカリストを探していた五十嵐充がアイドル的な活動をやっていた持田香織と出会い、デビューのための準備を開始。当初は持田ソロをプロデュースするつもりだったようだが、ユニットとしてデビューする事になり、最終的にギタリストとして五十嵐と知り合いだった伊藤一朗が呼ばれ、3人でのデビューになったという。

この時代は煌びやかなキーボードサウンド+ハードなギターというスタイルで、後々までエイベックス王道とされる音楽性の基礎のような存在にもなった。後にデビューしたday after tomorrowもgirl next doorも時流を取り入れながらも基本はこの時期のELTを彷彿とさせるような音楽性を軸にしていた。また両グループとも脱退後の五十嵐充がサウンドプロデュースしていた時期がある事も共通している。

続けざまに大ヒットを連発した一方で、あまりに早すぎるリリースペースに1人でじっくり作り上げていく制作スタイルを取っていた五十嵐充は徐々に疲弊。持田曰く「どんどん痩せていった」。限界は98年頃から見え始め、99年にはこのままでは3枚目のアルバムを作る事ができない状態にまで陥り、ベスト盤を出していったん休養に入る事になった。

09年『Every Best Single~COMPLETE~』リリース後にそこまでを執筆、
2016年20周年に合わせて全面改訂予定だったが、大幅に遅れ、2017.4~以降ようやく着手。

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JUDY AND MARY シングル回顧2~1997-2001~

大ブレイクを境にしてソングライターとしてTAKUYAがメキメキ成長、恩田快人は曲を一気に書かなくなってしまい、いつしかTAKUYAがバンドの主導権を握るようになった。作曲面に限らず、YUKIとの作詞の共作の増加、Additional Production by TAKUYA(『THE POWER SOURCE )→Album Concept and Additional Production:TAKUYA(『POP LIFE』)→Total Stage Concept by TAKUYA(『44982 VS 1650』)→Produced by TAKUYA、編曲:TAKUYA(『WARP』)とアルバムにクレジットされていた表記を見てもどんどんリードしていったことが分かる。
99年に1度活動を休止、解散は絶対ないと念を押してこの間に各自ソロ活動を行い、1年後に約束通りに復活。しかしそこから1年で結局解散となってしまった。完全にやりきっての解散、ソロアーティストとしてのYUKIの大成功もあって、再結成ブームの中においても再結成の可能性は限りなく低いものと思われる。不仲だったイメージが強いがメンバー間の共演が無いわけではなく、06~07年頃に高橋瞳のプロデュースをTAKUYAが担当した際に、ドラムに五十嵐公太を起用するなどもしている。 「JUDY AND MARY シングル回顧2~1997-2001~」の続きを読む…

JUDY AND MARY シングル回顧1~1993-1996~

女性ボーカルに男性演奏陣というソニーとしてはREBECCAに続く存在として大ブレイクした90年代を代表するポップロックバンドJUDY AND MARY。
結成の経緯が変わっていて、元々恩田快人が既に別のバンドでメジャーデビューを果たしている中で、サイドプロジェクト的に始動。インディーズで作品をリリースするもあくまでサイドプロジェクトだったので1度解散したが、恩田快人の中で熱意が高まって再始動となり、この過程で参加できなくなったギタリストがTAKUYAへと変わって現メンバーが揃った。
このため恩田・五十嵐はデビュー時点で既にアラサー、YUKIとTAKUYAは20歳そこそこと年齢にやや開きがあった。さらにビジュアルが4人ともバラバラで全く噛み合ってそうに見えないといういびつさも異色だった。

初期~中期は恩田快人がメインライターだったが、中期以降ソングライターとしてギタリストとして、プロデューサー佐久間正英の後押しもあって自我を開放したTAKUYAがメインライターへと切り替わり、末期には編曲プロデュースまでTAKUYAの名義になってしまうなど、バンドの主導権は極端な偏りを見せた。それゆえに完全にやりきっての悔いの全く残らない全力で駆け抜けた短くも濃い活動期間となり、再結成ブームの中においても再結成される可能性が最も低いバンドの1つでもある。

2017.3執筆、編集を経て2017.5公開 「JUDY AND MARY シングル回顧1~1993-1996~」の続きを読む…

WANDS シングル回顧+~3期 1997-2000~

残された木村はWANDSを続ける事にして、新たに和久二郎(Vocal)、杉元一生(Guitar)が加入。3期WANDSとして再始動を果たした。この新生WANDSを3期と銘打った事で公式にWANDSは1期、2期、3期と区分された。
しかし、ジャケットをイラストだけにしてメンバー表記をしなかったり、PVでもメンバーの姿を分かりにくいようにしたりと、一応3期WANDSとしてボーカルとギターが変わった事をアナウンスはしていたものの、ボーカルチェンジを隠すようなやり方に当時のファンが反発。
ちょうどインターネットが普及し始め、ファンサイト文化が盛り上がり始めていた頃だったので3期へのバッシング合戦となった。
3期のヒット2曲がいずれも少年少女向けアニメタイアップだった事もあり、交代劇を知らずに主題歌として親しんだ若い世代も多かった。このため後追いのリスナーほどフラットに3期を受け入れることができており、現在は3期を評価する声も一定以上見受けられる。

また和久二郎は解体後にビーイングを離れてソロとなり音源もネット上で公開していたがCD発売に至ることが無く契約切れになり長らく引退状態にあったが、2012年に本名の松元治郎として復活。同じく本名で活動している安保一生(杉元)の全面バックアップにより自主制作でのCD発売を行った。4年後の2016年には2作目もリリース。本人、安保の曲だけでなく、木村真也、綿貫正顕の提供もあり、ライブでは3期WANDSメンバーが揃ったという。
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WANDS

WANDS シングル回顧+~2期 1995-1996~

95年以降のWANDSは急速にロック色を強めた。生音バンドサウンドへ移行し、オルナタ方面へ向かった結果、キャッチ―さは薄れ、ヒットからも遠ざかっていく事となった。
あまりに急速にやりたい方向に舵を切りすぎたゆえか、「WORST CRIME~About a rock star who was a swindler~」の次のシングルとして用意された曲は(用意されたと言っているので提供だったっぽい)ポップ路線で、もう無理だと感じた上杉昇は脱退を決意。上杉のいないWANDSに興味がないとした柴崎浩もそれに追従して共に脱退して、他社でal.ni.coを結成。結局上杉と柴崎の間にも音楽性の隔たりがあったのか、al.ni.coは立て続けにシングル3枚、アルバム1枚をリリースして1stツアーを行うも1年以上の沈黙の末に解散してしまった。 「WANDS シングル回顧+~2期 1995-1996~」の続きを読む…

WANDS

WANDS シングル回顧+~2期 1993-1994~

大島康祐の脱退により、新たにキーボードとして木村真也が加入。ジャケット写真に登場したのは中山美穂&WANDSでの「世界中の誰よりきっと」からだったが、当時はメガネをかけていなかった。「時の扉」のジャケットでもかけていないが、以降はトレードマークであるデカメガネをかけるようになった。
93年はブレイクもあって怒涛のリリースラッシュとなったが、大島康祐のストック曲、新規の提供曲も引き続き採用されていた。メンバーの自作も行われていたが、ギターの柴崎浩による作曲はC/W、アルバムに留まり、提供曲によるヒットが中心だった。 「WANDS シングル回顧+~2期 1993-1994~」の続きを読む…

WANDS

WANDS シングル回顧~1期 1991-1992~

91年にデビューした当時のメンバーは上杉昇(Vocal)、柴崎浩(Guitar)、大島康祐(Keyboards)。
大島康祐が作編曲を主に担当して音楽性の中心となっていた。しかしシングルA面で大島が担当したのは3枚のうち1枚だけとなる。音楽性の違い及び大島が自身のユニットSo-Fiを結成するためとしてブレイクする前に脱退。中山美穂&WANDSの「世界中の誰よりきっと」が大ヒットして引っ張られるように「もっと強く抱きしめたなら」が大ヒットした頃には既にメンバーは入れ替わっていた。

この時代のWANDSを1期と形容するようになったのは上杉柴崎が脱退後、和久杉元が加入した新たなWANDSを3期と公式に形容してからだった。
また初期にメンバーが安定してなくてすぐに入れ替わるというのは当時のビーイング系では割とよくある事だった。

1期ではシングル3枚、アルバム(ミニ)1枚をリリース。 「WANDS シングル回顧~1期 1991-1992~」の続きを読む…

WANDS

L⇔R 全シングル回顧 1992-1997(後編)

初公開時、初ブログとして公開するもまとめ版を制作していなかったので改めてまとめ、本来の過去曲回顧ページへ移行。これに伴い、1ページだと長いので前編、後編に分割。

2017.3執筆
一般発売された全アルバム及びシングルはCD、CD未入手のC/Wは配信を利用し、アルバムと同一音源のため入手不要と思われる1st、4thシングル以外を入手して視聴。

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