思い出の平成音楽~平成16年(2004)~

大学1年~2年。個人的には不調元年。体調不良に陥る事はこれまでも少なくは無かったが、連続して陥った事で体調不良を気にして体調不良に陥るというスパイラルも発生して悪化。個人的に曲がり角の年。

闘病別離を主体とした純愛ブームとなり、「世界の中心で、愛をさけぶ」「いま、会いにゆきます」もブームに乗っかって見に行き、ブームに乗っかってみんなで泣いた。まだシネコンではなく、街の映画館が残っていた末期数年の頃で、確か映画館建物ごと全面リニューアルしてかなり綺麗になっていたんだけどそっから数年でシネコンに負けて全滅しちゃったな…。

ドラマ『オレンジデイズ』もこの年のドラマ。年下、つまり放送時の高校生以下にこのドラマを好きな人が多い印象があり、このドラマの大学生活に憧れて大学生になったけどこんな大学生活は無かった、というのが後にあるあるになったけど、実際現役大学生だった当時、このドラマの大学生活は実感のない夢想っぽいキャンバスライフだなぁと思った記憶がある。それよりも主役の妻夫木君が電車待ちの間に隣にいる疲れたサラリーマンを見て、自分ももうすぐあっち側になるのだろうと物思いにふけるみたいなそういうところがリアルで強く印象に残った。

主題歌だったMr.Children「Sign」の最後のサビの一節“残された時間が僕らにはあるから大切にしなきゃと小さく笑った”を聞くと物凄く尊いものがある。当時特にこの一節を意識してなかった人や何が残されているのか分からなかった人、今学生が終盤に向かっている人はそれを踏まえると刺さる…かもよ。

CCCDは04年8月にエイベックスで内紛が起こったのを機に終了となった。これはMAX松浦氏が上層部と方針で揉めて退社する騒動となり、1度は退社するも、アーティスト側の信頼も厚かったMAX松浦に全部持っていかれる恐れが生じて結局MAX松浦が社長になる事を条件に戻り、彼がCCCD撤廃を即座に行ったため。ソニーもちゃっかり便乗したので、残りのレコード会社も追従。あれは何だったのかという勢いであっという間にCCCDは過去のものになった。

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思い出の平成音楽~平成15年(2003)~

高校3年生~大学1年生。受験を理由にホームページの更新を休止するのが一般的なのに、ロードオブメジャーが流行っていたので“ロードオブ浪人”を掲げて受験のリアルドキュメントが綴られるという前代未聞からのまさかの1発合格により、大学進学が決まる。その後も大学入学から免許取得、15時間DRIVEなどドキュメント路線が続いており、当時のこのサイトは完全な日記系テキストサイトの系統に属するもので、音楽感想や「今週のチャート」がオマケのような状態であった。というか「今週のチャート」なんかはずっとオマケのつもりだったんだけど、いつの間にかメイン扱いされ

高校卒業に当たってはようやく終わったァァァァァ!!!!!という開放感が強く、ここからかなり気分的にも一新された。高校の卒業式が超土砂降りの豪雨、最速で帰宅して3月の冷たい雨と共にピリオドを打ち、その後の大学入学以降は何故か穏やかな青空ばかりが浮かぶ。なのでこの時期に聞いていた曲は青空の思い出と共にある。

また体調不良に悩まされる前の最後の年がこの年だったので、2003年=開放感と青空というイメージが非常に強い。 「思い出の平成音楽~平成15年(2003)~」の続きを読む…

思い出の平成音楽~平成14年(2002)~

高校2年生~3年生。ようやくたどり着いた「Beautiful Dreamer」開設年。平成14年(2002年)2月11日、祝日を利用してサイトを制作、ジオシティーズにて公開開始。当時のクラスメイトだったsusumuwk君らの影響で軽く作り方を聞いて後は調べてささっと作った。コンセプトは「あったらいいなこんなサイト」という個人的なものであり、多くの人に読んでもらいたいとか広めたいという意図は全く無く、第1に極力宣伝しない、スタンスとして偶然たどり着いていいなと思ってくれた人が楽しんでくれればいい、というものであり、今も変わっていない。

トップページのデザイン及びブログ以外の制作環境も平成14年当時のままである。毎年書いているが、ジオシティーズ亡き今、Front Page Expressを使い続け平成14年の見た目のまま現役のサイトは本当に希少だろう。当時影響を受けた先人たちのサイトはジオシティーズも多く、更新が早くに止まってもその残骸は本人が消さぬ限りずっとあったが、平成最後の3月31日をもってジオシティーズが消滅した事で軒並みとかほとんどとかじゃない、最早全て消滅してしまった。

このサイト開設から1ヶ月、当時のクラスの仲間たちとスキーバスツアーに出かけ、これが高校最初にして最高のいい思い出となった。向かった先は「妙高杉ノ原スキー場」。これは某サンマリーナのように消滅してはいないが、現在リフトの本数が激減している。当時旅館からすぐリフトに乗ってゲレンデへ行けたがまずその連絡リフトが消失。コースはあるので戻ってはこれるが、行くことができない。また当時はリフトを乗り継いでいくだけで山頂へ行けたが、ゴンドラでカバーできる範囲のリフトをほとんど削除してしまったらしく、かなり寂しい状態となっているようだ。

この旅行に参加する事になったのは、たまたま計画中の時に席が近かった事と、スキーが出来るからという事だったわけだけど運が良かった。ここでもやはりメンバー中最強の腕だったようだが、山頂からの高速レースなど熱い展開もあり、その模様を綴った初期日記「雪山回顧」は残念ながら間違えて消してしまいバックアップも無いので既に忘却の彼方。3年間で1番楽しかった記録が消滅してしまっているというのもまたこの3年間らしいのかもしれない。

そんなようやく高校生活が楽しくなったかと思われた直後のクラス替えでは何かの陰謀か、通常バラバラになっても数名ずつは一緒になるはずが、1人だけ別のクラスに飛ばされるという事実上の転校状態(1年の時のクラスメイトがかろうじて数名いたとはいえ)に陥った。ただでさえ3年生のクラスは選択授業により全員が一緒に授業を受ける機会も少なく、バラバラな行動になりがちな上、3年生でそういった状況となればみんな時間が空いたタイミングではそれぞれの”ホーム”(基本的には部活)に散っていくので、クラスの団結は最後にして全くなく、かなりアウェーな日々を過ごした。というか選択式の授業や体育なんかで他のクラスと合流すれば1,2年の時の知り合いに会えるはずなのにそこでもことごとく誰もいないのである。見覚えのある奴すらほとんどいない。それはさすがにおかしくないか。しかし実際そうなのだ。ついこないだスキーに行った仲間たちもそれ以外の仲間もみんなどこに行ったんだ?時空が歪んだのか?というくらい遭遇する機会が皆無。世にも奇妙な1年間であった。

2012年に同窓会があった際に1年、2年、3年時のクラスにそれぞれ集まる時間があったが、1,2年は思い出話に華が咲いたのに、3年の時だけえ?僕達/私達同じクラス…でしたっけ…?え?え?いや確かに○組だったんだけどえ?え?みたいなマジそんな空気。お互いクラスメイトだった自覚がほとんど無いため、早々に話す事の無くなった面々は現役当時と同じように”ホーム”へ散っていき、その空間からは誰もいなくなっていた。正直ここまで他の人たちもそんな感じだとは思っていなかったので(他の人たち同士ではもう少し付き合いがあるのかと思っていた)本当にまとまりのないクラスだったんだなと改めて思った。

そういえば当時無理やり体育祭委員にさせられたんだけど(例によってまとまりがないので誰もやりたがらずクジで)、同じく無理やり任命された当時の相棒なんてもっとやる気が無かったので、結局体育祭割り振りなど最低限の仕事をほとんど自分1人でやる事になった(相棒立ってるだけ)。その相棒、この同窓会の時に他に話題が無いので無理やり体育祭委員やらされたよね~なんていう話をしたら一切覚えてなかったからな…。薄ら笑いでえ?それ本当に俺?マジで?ホント覚えてねー(徐々にシリアス顔)という始末。

いわゆるクラスという単位で30人とか40人単位でまとめられて1年過ごすなんていう幼稚園や小学校から当たり前に続いてきた繰り返しは高校3年生が最後になるわけで、改めて最後がアレだったのかぁ…。。別に悪い思い出でもないが、なんていうかこれといった色が無い。そういえばこの年に『無色』というアルバムがあった。もしかしたらあればこのクラスを象徴するに最もふさわしい作品だったかもしれない。

そんなわけで無色の日々を送っていた平成14年。受験が迫るのも重なって正直無色というか無気力な日々であった。早くこの虚無な1年が終わる事だけを願っていた。しかし悪い思い出があったわけではなく、色の無い中から少しでも色をさがして思い返してみれば少しは色もある。万年5段階中2か3だった体育がバドミントン効果(中学3年間部活でやってたので)で小1からの通信簿生活12年、最後にして「4」を取り、このバドミントンの体育の期間だけは知り合いもいて束の間の安らぎを得るなんて事もあったし、その他ちょくちょくいいこともあったと思う、たぶん。

2002年を振り返るうえで外せないのがコピーコントロールCDの悪夢だろう。CD売上激減を違法コピーのせいにしたレコード会社がエイベックス先導により導入したこのコピーコントロールCDは通称CCCDと呼ばれたが、前提からして様々な問題を抱え、早い段階で音質劣化を指摘する声も相次ぎ、非難を浴びながら強行。

仕組み自体がCDに意図的にエラーを混入させることでPCでのリッピングを邪魔するというものだったので当然普通のプレイヤーでも見えない負担がのしかかる。メーカーが再生保証をしないというねじれ現象も発生、実際カーステレオなど一部環境では本当に再生できなかった。一方で主目的であるPCリッピング阻止に関しては機能がザルで、PCでのリッピングは普通に可能であった(ただCDドライブへの負担が半端なく、ガガガガガガガ等の異音を発しながら読み込む)。
※ただし全て環境による。再生できるかできないか、リッピング出来るか出来ないかは運次第であった。

当然再生保証のないものがCD規格を満たすはずも無く、CCCDとはCD規格外製品として正式に扱われた(CDトレイなどに刻印されている「Compact Disc」のロゴも無い)。当時CCCD糾弾系サイトで通称「銀色円盤」などと呼ばれていたのは規格上CDでは無いのでCCCDという呼び方は誤りである、という発想からだった。

いかに既存メディアでCCCDが報じられなくとも、インターネットが普及してきて誰もがCCCDの問題点を以前とは比べ物にならないほど容易く入手できるようになっていた02年という時代にCDのメイン購買層を犯罪者扱いして喧嘩を売ったこの施策は当然反感を買いまくり、CD売上は更なる低下の一途を辿るのであった。

夏にはthe FIELD OF VIEWの解散が発表され、12月1日の解散ライブは友人と共に受験生であるにも関わらず出向いて最後の瞬間を目に焼き付ける。このライブレポの効果もあり、1日10人とかだったアクセス数も50人から100人弱程度にまで伸びてきてサイト初年度は幕を閉じる。

あとあまり興味は無かったけどサッカーの日韓W杯はさいたまスタジアム2002が一応市内にあるという事もあって間近で盛り上がっている感じはあった。試合の日はみんな学校サボって帰っていく光景が窓から見えたのを覚えて

さて、1996年辺りからリアルタイム色が強まったが記録が無いので、ゼロから作品を洗い直していくという時間かかりまくりな作業が2001年まで続いたが、ここからは記録がある。この「Beautiful Dreamer」という記録が。当時の感想のままのシングル感想コーナーはそのままリアルタイムのシングル全視聴記録だし、年末に勝手に年間ランキングもやっているはずだ。まずはそこから厳選して、後はアルバムコーナーから該当年の作品を引っ張り出して後追い枠へ回していけばいい。これは時短になるぜ!

…と思ったんだけど2002年は心の荒みっぷりが全面に出すぎているため、終始お前誰だ状態になっており、作品の羅列はともかく残されているコメントが我ながら正直信用できない文句ばっかりじゃないかお前。ていうかちょっとこっそり削除したいくらいに誰だお前

まあ改めて思い返したり同世代の管理人さんと話すと大概このくらいの若い頃(というか初期の頃)って今より文句が多いっすよね、という見解が一致したりするけど、それがつまり若さって若さだよなっていうやつのサイト/ブログVer.みたいなもんだろう。結局当時の記録はあまり参考にならないのであった…。

連休モードでのストックも尽きるので更新が鈍化するかも…。

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思い出の平成音楽~平成13年(2001)~

高校1年生~2年生。ついに21世紀へ突入。世紀が変わるという生涯1度の体験(世紀末に生まれて100年以上生きれば1世紀フルコンで3世紀またげるが記憶的には厳しいものがあるだろう)だったが、1900年代が終わって2000年代という前年のインパクトと2000年が2001年になったというのとどっちが世間的に騒がれていたかっていうと前の年だったような気もする。いずれにせよ20世紀に物心ついた者が必ず1度は思い浮かべた「21世紀は車が空を飛んでいる」に代表される未来感溢れる時代がやってくる事は無く、これまでと変わらぬ地続きな21世紀がやってきた。

ただ我々地元にとっては01年5月1日より浦和市・与野市・大宮市が合併して「さいたま市」になってしまったのでこれはかなり21世紀(?)だった。浦和・大宮はそれぞれ「区」として残ったが、浦和市民、大宮市民でも単に西区だ北区だと方角ならそのままなので分かるが、緑区だの桜区だの何でそうなったのか良く分からない区名にされてしまったり、与野市なんて中央区と「中央」の文字を冠したからいいだろとばかり地名としての与野が消滅してしまい、しかし与野と付く駅名だけ複数残るという謎な区分け。

住所が変わったので引っ越しても無いのに新しい住所を覚えるのが地味に大変だったし、誰もが思う「何故にひらがな?」というのは18年経った2019年の映画『翔んで埼玉』でも変わらず突っ込まれ続けている

なお「さいたま新都心」の駅やさいたまスーパーアリーナなどは前年の00年オープン、駅改札の右にあるコクーンシティ(ショッピング施設)はまだ無かった(04年オープン)ので、駅の右側はな~んも無かった。そう考えるとさいたま市やさいたま新都心付近には確実に来ていたな21世紀

高校2年生は高校では1番楽しかった時期だった。このサイト開設のきっかけになり、初期バナーを提供してくれたsusumuwk君やちゅう君ともこの2年時にクラスメイトとして知り合っている。翌年3月になるので次の年で触れるが、仲間たちとスキーに出かけたというのもこの時のクラスメイトだし、その後そこそこ後年まで連絡を取り合っていたのもこの2年時のメンバーのみだった。高校1年生の林間学校は山登りが大変だったのしか思い出したくないが、この年の秋の沖縄への修学旅行はそれなりに楽しかった記憶でまとまっている。

この修学旅行時にサングラス姿で登場したところ、相変わらず予想の斜め上を行くなお前はという感じでクラスがざわついた。さらにグラサン姿を撮影したsusumuwk君撮影の写真がまるでどこかの監督のようだった事から面白がられてしばらく教室に「サングラス姿のMOMA」という謎写真に「カントク」というキャプションをつけて貼られ続ける事となり、この2年の時のクラス限定であだ名が「カントク」になるという珍事があった。

あと前年下半期から喉がおかしくなってきて、カラオケで曲がほとんど歌えなくなった。ちょうどDEENのキーがこの年を境に下がるんだけど、その下がった後でギリギリ。喋っていてもなんかおかしい感じがするって事で翌年医者に診てもらうも確かに声帯が赤くなっているが原因不明って事で理由が分からず。結局06年頃までかかって徐々に高音が出るようになっていったけど、歌えなくなった事で要するによくあるカラオケで歌うために覚える的な聞き方を全くしなくなったので、ただただ音楽を聞くのに集中するようになったっていうのはあったと思う。歌だけ聞いていたのが歌詞とか演奏とかトータルへ変わっていくのもこの頃から徐々にだ。

一方でヒットチャートはいよいよ本格的にCDが売れなくなり、ミリオンヒットが激減。01年当時としてはなんかもう何でこうなったのかなというか、90年代のままでいられなかったのかなというくらい確実に何かが足りない感覚が常にあった。ただ今思い返すとなんだかんだ思い出のヒット曲が多かったりもする。

インターネットではあまりに料金がかさむのでISDN回線に早い時期でなっていたと思うんだけど(00年後半にはなっていたはず)、音楽レビューサイトなんてものも見るようになり、ビーイング系というのも掘り進めた。当時のレビューサイトではやたらGARNET CROWや4th以降の小松未歩が崇拝されていた。チャートレビューをやっていた木更津市民さんのサイトにたどり着いたり、メル友を作ってメールしたりしていた。サイト開設前夜の頃だ。

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思い出の平成音楽~平成12年(2000)~

中学3年~高校1年生。ついに迎えた2000年、ミレニアム。高校受験、そして中学卒業を迎え、ここまでの中ではクライマックス級の勢いがあった。ただ中学があまりに楽しすぎたため、その反動が大きすぎて高校が始まるとあの勢いを越えられない。並びもしないし、及びもしない…と早くも懐古モードに突入してしまったのは良くなかった。

中学時代までは音楽の趣味が合う友人も多かったのだが、高校に入ると本当に同級生?と問いたくなるほど音楽の趣味が合わない。『ドラゴンボールGT』主題歌を例に出してもFOVとDEENの区別がつかない、ましてやWANDSまでごっちゃになっている始末。話す相手話す相手そんなんばかりでヒットチャートすら知らない。この年を境にリアルの友人で音楽の話をするのをあきらめた。その溜まった思いは2年後にこのサイトという形で外に放たれる事になるので、サイト開設へのきっかけはこの高校入学時の衝撃が大きかったといえる。

大きく変わった事として携帯電話の普及に伴い、高校入学と同時にみんな携帯電話を持つようになった。ちょうど我々の学年はこの入学のタイミングで携帯を買ってもらったという者が多かった。持たせてもらえない者も少なくは無かったが、高校3年間で最後まで携帯を持たない者というのは高校卒業する頃には少なくとも知り合いでは1人か2人だった。

00年3~4月時点での当時の着メロは和音が最新機種で出始めた頃だったので最初に手にした携帯は単音だった。当時は着メロを手入力できる機種が一般的で、着メロ譜なんてのも出ていて、雑誌の片隅に載っていたり、メロ譜だけの本が出ていたりした。音感は無かったが、見て入力くらいはできたので、メロ譜を頼りにして着メロを何曲も手入力して使っていたのだが、FOVの「君がいたから」のサビが授業中に鳴ってしまった時に(鳴らすなよ)クラスメイト全員はおろか、割と世代じゃないのかという教師ですら知らないというのは本当に異世界に来たのかと思った。あの学校の門をくぐる時に違う次元に迷い込んでいるのではないか、と。なおこの時普通なら慌てて切るところを比較的緩い空気だったのでこれは許されるだろうと判断、電話に出て「授業中だ!」と言って切るというパフォーマンスをしたところ変にウケてしまい、以降ネタキャラ扱いされるようになってしまった。音楽の何か1曲披露しろという課題でいきなりアコースティックギター片手に登場してサザンの「この青い空、みどり」を歌ったりしたのもそれに拍車をかけた気がする。

世紀末の混沌が明けて、空から恐怖の大王も降ってこなかったせいか、21世紀を迎える頃には比較的希望の歌がよくヒットしていた気がする。「この青い空、みどり~BLUE IN GREEN~」にしても「背景ロマン」にしても「恋愛レボリューション21」にしても新たな時代への希望に満ちている。

音楽環境的にはこれまでのカセット録音からMDを経ずにいきなりCD-R録音へ移行。この世代でこれだけ音楽を聞いていたのにMDを使った事が無いという奴はかなり珍しい気がする。

この年に始めた借りてきたシングルを集めたCD-Rは現在までコレクションが続いている。当然こうなってからの方が今でも繰り返し聞けるので聞き返した回数が多い。

1度整理したので00~02年以前は曲目ラベルが無いんだけど、今なお残る最初期のCD-Rが以下の写真。これは00年9~11月くらい。

あとこの年に初めてインターネットに触れる。高校でも自宅でもインターネットが導入されたので、まずはネットサーフィンから始まった。当時はISDNより前の接続した時間だけ料金がかかるやつだったな。

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