思い出の平成音楽~平成11年(1999)~

中学2年~3年生。2年生終盤の2月の京都に修学旅行に行く、というのは少し珍しかったかもしれない。修学旅行の文集をみんな真面目に書く中で、当時からこのサイトの感じを2倍くらい若く、3倍くらいふざけた感じで書いたため、文集がなんか面白い、独特すぎる、と一定の人たちから一定の評価をもらう。また友人は自分のは真面目に書いて、別の文集とか書きたくねーという友人をプロデュースするという形でほぼ全面的にふざけ倒した文章を掲載させていて個人的にはそっちの方が面白かったと思う。いずれにせよ卒業文集時にはあの時面白かったから期待しているよと数名以上に言われたために調子に乗って卒業文集はもっとふざけてシュールな感じになった。

3年生になるといよいよ高校受験が迫る。部活の引退など徐々に終わりを意識していく中でなかなか受験モードにはなれず、ここに来てカラオケにドハマりして上半期から夏にかけては友人たちと頻繁にカラオケに行きまくった。勉強しろよ。また“中学最後の夏休み8月31日”と称して猛暑の中、昭和記念公園に仲間たちと遊びに行く。暑すぎて誰もおらず、自販機のジュースだけで1000円くらい浪費するというそれもまた青春。ここからある程度は切り替わったように記憶している。正直それまではほぼ自動的に次が待っていたし、何より江戸幕府の頃は今日と明日を幕府に目をつけられずに平穏にやり過ごせるかが全てだったし、そこからの反動で1,2年生はただ毎日が新鮮で楽しかった。初めて人生を選択するというと大げさだが、今まで通りではない大きなものが迫りくる感じはあった。後で思うと大したことではないんだけどな。

時は99年、1900年代が終わる、2000年が来るという世紀末モードの中、色々と混沌としてきていた。J-POPもそうで、宇多田ヒカルの出現以降明らかにそれまでに比べて異質な音楽が大量にヒットするようになり、やれR&Bやら、HIP HOPやらと今までヒット曲としてはあまり聞いたことが無いような曲が大量に上位を独占し始めた。挙句の果てには誰も持っている奴を見た事が無い「だんご三兄弟」の異常ヒット、4曲入りでそれミニアルバムじゃないの?という反則技みたいな浜崎あゆみの『A』、教授と呼ばれるおじさんが神妙にピアノを弾いている曲が謎のミリオンヒット(energy flow)、マイクをさかさまにもって歌う挑発的なDrgon Ash(「Let yourself go, Let myself go」での『CDTV』でのゲストライブ(何度も再放送されている))、俺は東京生まれHIP HOP育ち悪そうな奴は大体友達という日本一有名な(?)ラップパートの爆誕、日本の未来はWOW WOW(LOVEマシーン)、ちょこっとLOVE…と挙げきれないくらい想定外の出来事が続出した。トピックが1番多い時期だったかもしれない。

またこれも宇多田ヒカルがそうさせたと思うんだけど、8センチCDが一気に滅亡へ向かい、マキシシングル化が急速に進行。まだケースだけマキシで中身は8センチというのも多かったが、それもいつしか12cmになっていき、シングルの概念(2曲入り)というのも崩壊していった。これはもうレコードからCDとかよりも有無を言わせないような勢いがあって、8センチCDの方がいいのになみたいな惜しむ声を出している暇も無いほどにスパスパ切り替わっていった。中古屋での扱いも数年後にはもう買い取ってもらえなくなって消えてしまった。近年ようやく8センチCD懐古の流れが生まれつつあり、店舗によっては取り扱いが復活しつつあるのは個人的には嬉しい。ほぼ20年も経ってるけどな。

そして個人的に極めつけがついに近所にBOOK OFFがやってきた。それまでdisk unionというレコード・CDの新品中古を扱う店はあって、そこでちょこちょこ取り揃えてはいたんだけど、当時のBOOK OFFは一定の人気ミュージシャンを除いて期間が経過したCDは機械的に250円、500円、シングルコーナーも8センチが充実、と現代からすれば宝庫であった。あの時代を知らぬ者が2019年の今あの時代のブックオフの値札を見たら安すぎて驚愕するだろう。ただなんでもかんでも100円で売りまくるせいで街の中古の本屋が程なくして全滅してしまい、独占市場となったのとネットとの兼ね合いから当時の街の古本屋以上にまでなってしまった現在は長い目で見て残念な結果になったと思う。

そんな感じで中古CDの集めやすい環境が整い始めた事から、ここでまだあまり聞いていなかった90年代のヒット曲の8センチCDを集め、まだ持っていなかったアルバムも買い漁った。

やがてビーイング系にまずは至ったりするんだけど、リアルタイムのヒット曲だけを聞いているところから終わってゆく90年代という過去へ向かったのはこれが大きなターニングポイントだった。加えて99年~00年という時代の節目も重なって『CDTV』では、年度ごとの年間ランキングとか90年代歴代ランキングや、20世紀歴代ランキング等、過去の年間ランキングや歴代ランキングの特集が相次いだので、そこで見聞きした曲をBOOK OFFで探して聞いてくるとかそういうのが多かった。

さらに過去大ヒットを生んだ彼らが今どんな曲を出しているのかにまで注目して聞き始めるみたいなことまでし始めたのは、友人間でも他にいなくて後にこのサイトが開設されるくらいJ-POPにハマるきっかけだったと言える。

そういう意味でここまでの数年間を地盤、助走期間として、この99年、そして翌00年が音楽ライフに与えた影響は大きい。それは当時のヒットしていた音楽シーンが、というのではなく、むしろ当時の変わりゆくヒット曲にはちょっと変わりすぎてて適応できなかった。時代の節目という環境、それらを集める中古屋の安さと充実によるところがドンピシャだったのが大きい。少しでも時代がズレていたら違っていた。本当にいいタイミングだったと思う。 「思い出の平成音楽~平成11年(1999)~」の続きを読む…

2019GW、初にしてラストスキー

恒例のGWラストスキーin志賀高原を今年も決行。
今シーズンは出足につまづき、喉の痛みが長引いたため年明けのタイミングを断念。その後も低空飛行状態が続いている間に時が流れ、昨年のような修羅場的状況ではなかったものの、なんとな~くタイミングを逃し続けて今シーズン最初で最後になってしまった…。来シーズンこそは…(定型文)。 「2019GW、初にしてラストスキー」の続きを読む…

雑記

思い出の平成音楽~平成10年(1998)~

中学1年~2年生。中2病なんて言葉があるように、やはり現在・未来が1番輝いて見えていた時期だろうか。O社誌の年間チャート掲載号を購入した最初の年でもある。2010年前後くらいまでは買っていたんじゃないかと思う。

小5の時のスキー林間は普通のスキー板とは違う変な板で滑ったゲレンデも単に広場の斜面を自力で昇って滑るというものだったが、中1冬のスキー林間学校ではちゃんとしたスキー場でちゃんとしたスキーを履いて行われた。「サンマリーナ玉庭」というバブルの産物みたいなスキー場で、サン・マリーナ♪サン・マリーナ♪という究極にダセェオリジナルソングをかけてしまうようなインパクトが凄かった。

上級メンバーの滑りっぷりと比較しても相変わらず学年最強クラスのスキーの腕だったみたいだけど、上級メンバーに知り合いが1人もおらず、大半の知り合いとは別行動だったため、知り合いたちにとっては「スキーしている間はいなかった人」に等しい状態であった。なおこのスキー場、2004-2005シーズン頃に休業になったまま終了した模様。

あとは長野オリンピック、特にスキージャンプがやはりとても印象深い。

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思い出の平成音楽~平成9年(1997)~

小学6年生~中学1年生。江戸幕府が自動終了となり、まずは幕府連中と同じクラスにならないでくれ!をみんなで願いながら入学した中学では、無事に幕府連中は全員別のクラスに。それどころか、散々苦しめられた給食は「残す人はここにいれてくださ~い」の一言で終了。小学校では残すのに教師の許可を取りに行く必要があったのでとてつもなく自由を感じた。

またクラスも和気あいあいとしていて支配とは無縁。これが平等か、これが民主主義か、これがニッポンの夜明けぜよか(違う)と感動の日々が始まった。江戸幕府を経験して同じクラスになった女子の1人が中1が終わるときに言っていた「本当にいいクラスだった。絶対同窓会やろうよ。」は実現してはいないが、とても実感のこもった一言だった。

『CDTV』を毎週見るようになり、急速にヒットチャートに詳しくなったが、小学校6年生終わりの給食の時間ではかかる曲のイントロだけでどの曲なのか全曲分かるようになっていて、1年前にバカにされた彼らがなんの曲だろう?とか言っている中で優越感に浸り、密かなリベンジを果たす

この年は引き続きヒットチャートを見ながら気に入った曲を借りてきてという形だったので当然ヒットしていないものは全部後追い。ただヒットしてないと言ってもこの当時は下位でロングヒットする曲も多くて最高20位とか最高30位とかでも5,6週その辺りに留まり続けていればサビくらいは耳に残るという曲も多かった。この時の記憶も後の発掘に繋がっている。

前年辺りから連ドラも見るようになっていたが、この年になるとさらに見るようになったのでドラマ主題歌として、というのも増えていった。やはりこの時期に接したドラマは今も覚えているものが多い。 「思い出の平成音楽~平成9年(1997)~」の続きを読む…

思い出の平成音楽~平成8年(1996)~

小学5年生~6年生。相変わらず学校での江戸幕府体制は強固となっていたが、5年生冬のスキー林間学校時のみクラス内どころか冗談抜きに学年トップのスキーの腕を見せつけた事でこの旅行中だけ幕府の連中の態度が対等だった…というのは今にしてみると要するに運動の出来がそのまま地位になるという小学校特有のアレだったと思う。

また卒業が迫る中で幕府内でも大事件が発生。当時クラスを仕切っていた二大巨頭のうち1人がもう1人を失脚させた。具体的には彼が休んでいる間に彼の暴君っぷりには散々嫌気がさしているだろうとクラス全員の前で演説して地盤を気づき、幕府連中が総出で彼を追放したのだ。

結果、彼は我々平民以下の扱いで残りの数ヵ月を過ごす事となり、今までしてきたことが返ってきただけの自業自得だとばかりに平民も誰も助けない。最後の家庭科の調理実習の時にも誰も班に入れたがらないので我々のところに彼がやってきてしおらしく入れてくれとお願い。前述のスキー林間の時だけは対等に話した事もあったので入れてあげたんだけど、この時は「なんでそんなことをするんだ!みんなが、お前がどれだけのことを奴にされてきたか忘れたのか!」とけっこう本気口調で仲間に言われた。いやだって同じことをしてどうするんだと思ったんだけど、それだけ立ち回りを間違えば即終了なサバイバルな日々だったんだなぁ…。

で、最終的に翌97年の話になっているんだけど、3学期にはクラスは1人の独裁体制となっていた。大名ポジション(幕府側近連中のように威張り散らしたり、給食のカツアゲをしたりはしないが、幕府連中から対等に扱われて攻撃の対象にはされない安全な立ち位置にいた数名)の何人かは2トップの1人をみんなを扇動して失脚させたやり方には密かに反感を抱いていたらしく、倒幕に向けてのレジスタンスかつ弱者の救済活動を開始。まあ具体的には上下関係とかの支配ではなく、単にみんなで仲良くやっていこうというスタンスで結束していく感じだったんだけど、あいつの独裁を許すな!と盛り上がってきたところで卒業になった。今振り返ってみてもダイジェストでこの長さなのでけっこうドラマだが、あのまま本当に倒幕まで行っていたらけっこうドラマみたいな展開になっていたかもしれない。誰もが立ち回りに苦心し、小学生ゆえの自制の効かない残酷さ、様々な人間模様を見たという意味では最もサバイバルな2年間だった。

そんなサバイバルな日々だったが、常に殺伐としていたわけでもなく、ヒットチャートに触れるきっかけもまたこの期間内であった。この年の給食の時間にかかったglobe「DEPARTURES」(今にしてみればアルバムVer.)のピアノのイントロをユーミンの「春よ来い」と間違えて思いっきりバカにされたことがきっかけとなり、少しはヒットチャートに詳しくなろうと考える。

同年8月頃より『CDTV』でチャートチェックを開始。当時『CDTV』はおなじみの深夜枠だけでなく、1週遅れの分を『王様のブランチ』の午後1時頃の時間を使ってチャート部分のみ(ゲストライブカット)『CDTVリピート!』として再放送していたのでまずはそこから見始めた。やがて深夜枠の本放送をビデオ録画するようになるが、ひとまずは『CDTVリピート!』がヒットチャートの原点となった。当時ランクインしていたのはSMAPの「青いイナズマ」スピッツの「渚」。まずこの2組をレンタル屋で当時やっていた6枚シングルセット(選択式ではなく店側が適当に6枚組み合わせたもの)を2パターンずつ12枚順次借りてきてカセット録音して聞き漁った。そして秋から年末年始にかけてはポケットビスケッツの「YELLOW YELLOW HAPPY」がロングヒット。『ウリナリ』での○位以内に入らないと○○みたいな企画もまたチャートへハマっていくのを加速させた。

いよいよ人生が、音楽が始まる。そんな前哨の1年。 「思い出の平成音楽~平成8年(1996)~」の続きを読む…