思い出の平成音楽~平成20年(2008)~

延長した学生最後の1年。想像以上に歪みながら(GOING UNDER GROUND「さかさまワールド」引用)も走り続けた濃くも短い最後の2年間は熱かった。1番いい精神状態で最後を迎えられたのは良かった。青春はこの年(+09年3月まで)で終わったと思う。大学2年以降でやれなかった事や、やり残した事は全部ここまでで取り戻せた気がする。もっとやれた事はあったし、リーマンショックとやらの大不況による内定切り等無ければどうなっていたか…というのはあるにしても、後々を思えば最終的に回り回って変わらなかったような気もする。

対談レビューが始まったり、年末投票が一気に盛り上がってきたりする中、なんだかいつの間にか「今週のチャート」が1番人気コンテンツになってしまっていたが、既に習慣化による自動書記状態が始まっていて最早「今週のチャート」に関しては何も覚えていない(他のコーナーと異なり書いたらそれっきり読み返しもしない状態)。チャート上位の曲も特に耳に入る事が減っていた。

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思い出の平成音楽~平成19年(2007)~

学生時代を延長して挑んだ最後の2年間に突入。大学最後の3ヵ月は毎週のように集まって遊び倒して、最後のスキー旅行(雪山回顧2007)は本当にクライマックスだった。正直旅行計画者ながら数日前から微熱が下がらない状態で旅行中も滑っている時間以外はかなり厳しい体調だったけどそれを勢いと楽しさで無理やり凌駕した。

旅行参加者ではないが、ネットを通じていないリアル大学ゼミ仲間で初めてビーイングGIZAが分かるやつがいて、最後の最後にげビーイングGIZAトークで盛り上がったという思い出も。お互いこれまでの人生経験から分かる奴などいないとあきらめていてギリギリまで話題にもしなかったんだけどふとした拍子にお互い「知る者」だと判明して意気投合。平成12年(00年)のところに書いたようにあの時あきらめてから7年。確か2つ年上だったと思うけど彼も初めてだぜこの話が分かる奴は!と言っていてなんかスゲー熱かった。確かGIZAではNew Cinema蜥蜴が最高だと言っていた。お前New Cinema蜥蜴はコンピ盤でしか聞いてないじゃないか…

専門時代は心機一転で突き進んでいたので結果はともかく、目的は果たして迷いと後悔の少ない時期だったと思う。

「貴方が選ぶ音楽大賞」の第1回を開催したのもこの年。去年までの恒例企画になった。

5月のZARD坂井泉水の突然の訃報はショックだった。その後の授業は頭に入らなかった。

05年の「WISH」のロングヒットに続いて「Love so sweet」が大ヒットした嵐がいよいよ本格的に躍進し始めたのもこの頃だろうか。年間チャートトップ10を眺めて色々ヒットしたなぁっていうのもそろそろ終わりの時期だ。

O社誌は購入を継続していたが、この頃にはすっかりアイドル雑誌みたいになっていた。肝心のチャート部分が改悪されるわ(確か一時期トップ100が50に減らされて抗議が殺到して元に戻ったとかあった)、徐々に斜陽気味になっていた。驚くほどどういったヒットチャート模様だったのかは覚えていない。いつの間にかヒットチャートと思い出があまり一致しなくなっている。年間1位もなんだったけなぁ…と思って今調べてみたら「千の風になって」だった。

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思い出の平成音楽~平成18年(2006)~

大学3年生~4年生。

非常に不安定な精神状態に陥り苦しかった前半、進む道を決めて前向きな後半で心境も見える景色もまるで異なるコントラストのハッキリとした1年だった。苦しかった時期の前半の曲の方が支えになった曲が多いが、それにしても前半は不思議なことに苦悩やリスタートを歌った曲が多くていちいち響いたな…。

全く宣伝をしなかった当サイトのアクセスも取り扱い作品数が増えてきて検索に引っかかるようになったり、「今週のチャート」がいつの間にやらアクセスを集めたりしていたらしく、後で知り合った人たちに聞いてみると大体この辺りから見始めたという人が多い。特に前半は日記でメンセツカーンが現れた!とか面接をRPG風にするとかいうかなりヤベェ事やってるんだけどいきなりそんなところから入って大丈夫だったのだろうか。

05年の秋にスタートして年内3回だったネットデジオが06年末には13回になっているのでほぼ月1レギュラー状態で制作するというネットラジオ全盛期

ゲストも何度か呼んでいるが(2012年前後のオフ会開催期で知り合った人たちとは全く違う当時の読者さん)、掲示板やメールフォーム等で連絡を取って近場の駅まで車で向かって回収、初対面からの挨拶を済ませて適当なスペースに駐車して車内に持ち込んだカーネル・S・マルオ氏の機材(当時はまだ携帯型の録音機ではなくもっと大型のMTRを持ち込んでいた)で録音するというかなりアグレッシブな事を行っていた。正直聞いてた人って二桁いねーだろってくらいだったと思うんだけど(ラジオページのアクセスは50~100くらいはあったはず)、あれから10年以上経過している現在、当時聞いてた人なんかはもういないだろうな。今考えるとなんか若さって若さだよな「思い出の平成音楽~平成18年(2006)~」の続きを読む…

思い出の平成音楽~平成17年(2005)~

大学2年~3年生。20歳を迎える。Twitterのアイコンになっている実写版神龍のような謎の龍は成人式さいたまスーパーアリーナで行われた際に余興として登場した竜神まつり会によるアトラクションである。当時使用していた携帯がV-601N、最初のTV付携帯として発売され、当時はGOING UNDER GROUNDの「ハートビート」がCMタイアップ(当時は知らなかった)として大々的に売り出されていた機種だがいかんせん今より携帯の進化が早かった時代。発売から2年も経過して既に古い機種となっておりカメラ性能にも限界があった。カーネル・S・マルオ氏が当時の日記に上げていた龍神様の方がSHARPの新しいやつで画質が良いがそれでも鮮明とは言い難い。そういう時代だった。そもそもあの広大なアリーナ部分に全く成人を入れずに、立ち見成人を大量輩出させてまでアリーナを空白にするほどの厳重体制で行われたため距離がありすぎてどうしようもなかったというのもあるが、広大だったからこそ巨大な神龍…ではなく龍神様が登場できたわけでもある。

また大学の通う場所が変わった。これは1,2年は埼玉、3,4年は東京と別れていたためで、同じ大学に通いながらも途中で全く別の場所に環境が変わるというシステムだった。地方から来ている者が多かったため、大学の仲間はみんな早く東京に行きたいと切望していたが、個人的には埼玉ののどかさこそが至高だと主張し続けていた。この主張は実際に東京に通い始めて初めて肯定されるようになり、みんな一様に「埼玉に帰りたい」と言い出すようになった。東京の狭さと窮屈さに辟易としたのである。

東京は確かに最新鋭だった。この年から新しくしたばかりなので近未来的でとても綺麗な建物だった。しかし問題は別のところにあり、ちょうどこの05年度から1,2年生も全員が東京1本、4年間一貫して東京固定に変わってしまったのが運のツキ。カリキュラムが変わり、本来いないはずの1,2年生が3,4年の授業も選択できるようになってしまったがために授業は人が溢れ、教室変更の嵐。ほとんど伝言ゲームみたいに張り紙を見て移動、しかしまた移動…と繰り返されどこも人人人人人…。埋め尽くされる人々の群れにあののんびりした広大な埼玉の地が一瞬で恋しくなった。

いずれにせよ環境の変化に合わせて東京(人混み)慣れしていこうという意気込みではあったものの、依然として不安定だったためか、05年は色々あった割には随分と混沌とした印象が残っている。余裕はほとんど無かった。

Zenryakuラジオの前身であるネットラジオを開始したのはこの年の秋だ。少し前の雑記に書いたようにこの頃からジオシティーズの容量問題に悩まされるようになる。

音楽的にはそれまで使っていた名称不明のパナソニックの5CDチェンジャー機能付のミニコンポがだいぶ古くなっていたので少し高級な感じのD-ME33に乗り換え。これ実は元々はもっと安いのにしようとしていたんだけど店頭視聴したら音が全く違ったので路線変更して奮発したものだった。

これを買った時がちょうどZARDの『君とのDistance』が発売された直後だったんだけど、これで聞いたら恐ろしく驚いたのを今でも記憶している。なんか音が凄い。今まで聞いていた「夏を待つセイル(帆)のように」は「夏を待つセイル(帆)のように」にあらず。「夏を待つセイル(帆)のように」とは本当はこんな凄い音だったのか!と1曲目から激しい衝撃を受けて何度も聞いてしまった。

慌ててDEENやFOVの聞きなれたはずのアルバムを引っ張り出してきたところ次々とまるで違う。今まで聞いていたこれがこのアルバムの音だと思っていたものとは何だったのか。今でも再生環境を変えると音が変わった事での新鮮さを得る事が出来て曲が生まれ変わるが、後にも先にもあれほどの衝撃は無かったなぁ。20歳くらいであのような体験をしたのが良かったのかもしれない。音質なんて正直CCCDの音質劣化というのも良く分からないくらいだったので対して気にしていなかったが、体験に勝るものはない。店頭視聴した時点で知ってしまった。

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思い出の平成音楽~平成16年(2004)~

大学1年~2年。個人的には不調元年。体調不良に陥る事はこれまでも少なくは無かったが、連続して陥った事で体調不良を気にして体調不良に陥るというスパイラルも発生して悪化。個人的に曲がり角の年。

闘病別離を主体とした純愛ブームとなり、「世界の中心で、愛をさけぶ」「いま、会いにゆきます」もブームに乗っかって見に行き、ブームに乗っかってみんなで泣いた。まだシネコンではなく、街の映画館が残っていた末期数年の頃で、確か映画館建物ごと全面リニューアルしてかなり綺麗になっていたんだけどそっから数年でシネコンに負けて全滅しちゃったな…。

ドラマ『オレンジデイズ』もこの年のドラマ。年下、つまり放送時の高校生以下にこのドラマを好きな人が多い印象があり、このドラマの大学生活に憧れて大学生になったけどこんな大学生活は無かった、というのが後にあるあるになったけど、実際現役大学生だった当時、このドラマの大学生活は実感のない夢想っぽいキャンバスライフだなぁと思った記憶がある。それよりも主役の妻夫木君が電車待ちの間に隣にいる疲れたサラリーマンを見て、自分ももうすぐあっち側になるのだろうと物思いにふけるみたいなそういうところがリアルで強く印象に残った。

主題歌だったMr.Children「Sign」の最後のサビの一節“残された時間が僕らにはあるから大切にしなきゃと小さく笑った”を聞くと物凄く尊いものがある。当時特にこの一節を意識してなかった人や何が残されているのか分からなかった人、今学生が終盤に向かっている人はそれを踏まえると刺さる…かもよ。

CCCDは04年8月にエイベックスで内紛が起こったのを機に終了となった。これはMAX松浦氏が上層部と方針で揉めて退社する騒動となり、1度は退社するも、アーティスト側の信頼も厚かったMAX松浦に全部持っていかれる恐れが生じて結局MAX松浦が社長になる事を条件に戻り、彼がCCCD撤廃を即座に行ったため。ソニーもちゃっかり便乗したので、残りのレコード会社も追従。あれは何だったのかという勢いであっという間にCCCDは過去のものになった。

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