REBECCA 35周年シングル回顧2~1999,2000,2002,2017~

90年の休止以降はメンバーは各自音楽活動を継続していた。毎年のようにベスト盤・編集盤・再発盤が発売され続けていた。解散したバンドなのに当初CBSソニーだった所属はレーベル移動を繰り返していてキューンに移動になったと思ったらソニーに戻ってSMEに変わり、近年のリマスター再発はSony Music Directというたらい回しっぷり。その上、再結成しての新曲は全て別のレコード会社に移籍して出しているという…。

1度目の再結成はライブのみ。1995年5月に阪神・淡路大震災の復興支援で2日間限定で再結成し、横浜アリーナで2days公演を行った。当初1日限定だったのが追加公演でもう1日追加されたので2日間となった。この当時は前年の94年にNOKKOがソロで「人魚」「ライブがはねたら」などREBECCAの最高売上を突破するようなシングルヒットを出してソロでも人気絶頂を迎えていた時期だった。

1999年には野島伸司脚本のフジテレビ月9ドラマ『リップスティック』に「フレンズ」が主題歌として採用され、ほかにもいくつかの楽曲が劇中で使用された。この際にはremixed editionとして既に古くなっていた80年代のサウンドを90年代のサウンドにミックスし直すリミックスが施され、シングル「フレンズ~remixed edition~」、アルバム『Complete Edition』共に大ヒットを記録した。また同じタイミングでNOKKOがソロ名義で「フレンズ」のセルフカバーシングルを発売したが、REBECCAでの一連のリリースは再録音ではないので土橋がプロデュース監修として関与したのみだった。

2000年にはREBECCA再結成を発表。移籍してシングル「神様と仲なおり/HELLO TEENAGE」をリリースした。しかしライブも無く、この1枚ポッキリでそのままフェードアウトしてしまった。この直後にはソニーから前年の続編『Complete EditionⅡ』がリリースされた。こちらにはより深く土橋が関与していてブックレットでは1曲ごとのライナーを書き下ろしている。

さらに02年にはシングル「Raspberry Dream/Tatoo Girl」をリリース。これは99年に発表されていたremixed editionでの「Raspberry Dream」のシングルカット及び木暮・小沼在籍時の初期の未発表曲「Tatoo Girl」の両A面であった。続けてremixed editionの総集編ともいえる『LEGEND OF REBECCA』もリリースされた。

以降は04年に『REBECCA COMPLETE BOX~20th anniversary~』で大半の楽曲をBOXリマスター化、2007年にオリジナルアルバムの紙ジャケ単独リマスター、2010年にはシングルA面B面を網羅したベスト盤『GOLDEN☆BEST』』、2013年に更なる最新リマスター&Blu-spec CD2でオリジナルアルバムとリミックスアルバムを再発、2015年にはGOH HOTODAによる最新ハイレゾリマスターにより、ハイレゾ配信もされている。再結成のタイミングに関係なく、00年代以降のリマスター回数が何故かやたらと多い

しかし再発されまくる中、気がつけばNOKKOはGOH HOTODAとの結婚後、00年以降はほぼ表舞台から遠ざかる状態となっていた。2010年に本格的なソロ活動を再開させた。手始めにカバーアルバム『KISS』を発表。REBECCAのセルフカバーもいくつかそこで発表された。

そして2015年に突如再結成を発表。再結成時点ではベース高橋教之が兄と母の介護のために運送会社に就職し、既に音楽業界を半分引退状態にあった。高橋はメンバーの事を忘れたことは無いと復活への喜びを語り、足を引っ張ってはいけないと仕事の合間に練習に励んで再結成ライブに備える様子が当時の特集番組でもクローズアップされた。この再結成以降、継続的な活動は無いものの、NOKKOのソロライブのサポートを高橋教之が担当するなどしている。

2016年は活動が無かったが2017年にはツアーと新曲を発表。2018年以降は再び宣言無く沈黙している。再結成したもののその後どうするのか明言せずに放置するのはどうやら芸風らし

解散後の各自の活動としてはNOKKOは90年代にはヒット曲も出しているし、土橋安騎夫も曲提供やプロデュース業を手広くやっていたが、プロデューサーの時代においてもてはやされるほどの存在にはならず、共に00年が近づくにつれてヒットから遠ざかり、活動も縮小気味となり、正直あまり知名度は高くない。

メンバーで最も有名になったのはドラムの小田原豊だと思われる。現在に至るまで様々な有名ミュージシャンのサポートドラムとして引っ張りだこになっており、J-POPのヒットアルバムをある程度所有していれば必ず、ドラムに小田原豊の名前が入っていてもおかしくないくらいの日本を代表するドラマーの1人だ。レベッカは「フレンズ」しか知らないが、小田原豊がドラムを叩いている曲は(そうと知らなくても)いくつも知っているという人も多いかもしれない。同じくサポートギターの是永巧一もかなりあちこちにサポート参加しており、アレンジやプロデュース作も多数ある(たぶん土橋より多い)。

個人的にREBECCAを知ったのは『リップスティック』であった。当時80年代のキーボードやシンセサウンドは相当に古びた時代錯誤のものに聞こえており、今と異なり10年ちょいで時代錯誤なくらい古く聞こえてしまうほど時代はめまるぐるしく、音の変化が激しかった。そんな99年だけにリミックスが施されてのリバイバルは必然だったのかもしれない。

以降緩やかにremixed editionを聞きつつ、2015年の再結成を前にしてベスト盤以外も一気に全作制覇して、再結成ライブのさいたまスーパーアリーナに参加。さらに2017年の日本武道館にも参加した。完全なremixed edition世代である。

2019.6執筆

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REBECCA

REBECCA 35周年シングル回顧1~1984-1989~

REBECCAの結成は82年頃とされており、埼玉県浦和市(現在のさいたま市)周辺で結成されたようだ。2015年の再結成以降に番組や雑誌で特集された際にこの浦和がピックアップされ、実際にNOKKOが浦和駅近くにある楽器屋を訪れて思い出を語る場面もあった。メンバーが集っていたというその浦和の楽器屋は現在も健在で、個人的にも高校時代にギターを買ったり、弦を買い足したりと利用していた事がある(00年代前半頃)。まさかNOKKOら当時の音楽仲間がそれよりも20年くらい前にあの場所に集っていたとは当時は知らなかった。

83年にソニーのオーディションに合格後に後のリーダーでメインライターとなる土橋安騎夫が加入。この当時は木暮武彦がリーダーで、デビュー時点でのメンバーはボーカルNOKKO、メインライター、ギター木暮武彦、ドラム小沼達也、ベース高橋教之、キーボード土橋安騎夫の5人。

シングル2枚とアルバム(ミニ)2枚をリリースするが、木暮武彦、小沼達也が同時に脱退。音楽性の違いとされていたが、当時木暮とディレクターの折り合いがかなり悪く、ポップな曲もやれという方針に反発したためクビになったと後に木暮のインタビューで語られている。レベッカを命名したのは木暮武彦で愛着があったためか、木暮武彦、小沼達也がボーカルにDIAMOND☆YUKAIを迎えて結成した新バンドは当初レベッカ♂を名乗っており、レベッカとレベッカ♂が同時に存在する時期があったが、やはりクレームが入ったのかRED WARRIORSに改名。これもアルファベット順、50音順のいずれでもレベッカの前後に来るように徹底したバンド名にしていてかなり意識していたことが伺える。

木暮、小沼脱退後は土橋をリーダー、メインライターとして、新たにドラム小田原豊、ギター古賀森男を迎えて再始動。程なくして一躍ブレイクしたので世間に知られているのはそれ以降だ。人気バンドとして80年代を全力で駆け抜けた。

一方でギタリストが定着せず古賀森男は1年半ほどで脱退、代わって加入した友森昭一は1度もレコーディングに参加することなく半年で脱退してしまった。最終的にレベッカに正規メンバーのギタリストは不在となり、古賀森男の在籍時からサポートギターとして断続的に関わっていた是永巧一が固定のサポートギタリストとして再結成以降も参加している。パーカッションの中島オバヲも同様で固定のサポートとして再結成以降まで関わっている。

1990年年明けの武道館ライブを最後に活動を休止翌91年に再開することなく正式に解散した。

2019.5~6 新規執筆

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REBECCA

レミオロメン シングル回顧+(後編)~2006-2011~

一躍人気バンドとなったレミオロメンだったが、その直後に反動が訪れる。突如としてダークな心情を反映した楽曲を送り出すと、重苦しい楽曲を連発。リスナーの間でも小林武史の影響と思われるピアノストリングスの使い過ぎを嘆く声が増えていき(同時期のミスチルでも同様で「ピアノまみれ」と揶揄されるほど)、拡大したリスナー層も『HORIZON』が約70万枚だったのに対して、『風のクロマ』で10万を一気に割り込むなどあっという間に縮小してしまった。

迷いを抜けたと語ってはまた迷っているような文字通り迷走しながら進んでいったのがこの活動後期だったといえる。ただ個人的に人生に寄り添っていたのはこの時期だった。全く同じものではないが苦悩と希望の繰り返しにはとてつもなく共感したし、救われた部分もあった。

何度目かの迷いを抜けてたどり着いた「Your Song」。その先のバンドの目標も嬉々として語られていたが、直後にあの大震災が起きた。10周年を越えて3人のやりたい事が変わってきた云々が休止理由とされているが、震災で音楽の無力さ、「Your Song」で到達した思いを否定されるかのように痛感したようなところも影響していたんじゃないかと思う。

2019年にはレミオロメンのセルフカバーをソロで行った『RYOTA FUJIMAKI Acoustic Recordings 2000-2010』も発売された。レミオロメンの楽曲自体は恐らく今まで以上にソロで歌い継がれていく事になると思う。その先にもしかしたらいつか3人が揃って復活する未来もある、かもしれない。

2019.3~4執筆
2011年対談も参照。2011年対談を踏まえて(休止発表前だったがその翌年休止になったきりなので結果的に全シングル対談になった)、そこから8年後の2019年視点でC/W、アルバム曲を追加。

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レミオロメン シングル回顧+(前編)~2003-2006~

山梨出身の藤巻亮太(Vocal,Guitar)、前田啓介(Bass)、神宮司治(Drums)の3人は小学校時代からの同級生で学生時代にもバンドを組んでいたようだが進学で1度解散。藤巻が迫る就職(大学卒業)を前にして一足先にスタジオミュージシャンをしていた前田に相談して看護学校へ進学していた神宮司を誘って音楽の道へ進むことを決意。これが2000年。2010年に10周年が掲げられていたのはこの2000年が結成起点とされているからだったようだ。

その後、地元の空き家の神社の母屋を借りての練習の日々(通称「神社時代」)を経て03年にデビュー。当初インディーズだったがすぐに小林武史の烏龍舎、ビクターへの所属が発表されてメジャーデビューを果たした。当初ストイックなロックサウンドを主軸としていて小林武史はプロデューサーだったが演奏には参加していなかった。方向性としてもお茶の間では知らないがロック好きの間では期待の新人として注目されるようなロック誌方面、いわゆるロキノン系に属するような立ち位置だったようだが、より飛躍していくことを決めたのか途中から小林武史のプロデュースが強まり、やがて全面参加、J-POP方面へと振り切った。この路線変更は賛否を呼んだが、結果的にはアルバム3枚は出すたびに売上を伸ばし、シングル「粉雪」も大ヒットするなど一躍若手ロックバンドとして、躍進することに成功した。

個人的には「3月9日」がリリースされたときに知り、その時は1曲限りだったが1年後のアルバム『ether[エーテル]』から聞き始めた。なのでブレイク前は知らないが、ブレイクしていって人気が頂点を極めるまでは何となくリアルタイムで感じていた。当時は好きな曲がいくつかあるけど程度でそこまで熱心に聞いていたわけでもなかった。本格的に響くようになったのはむしろこの栄光の後だった。

2019.3執筆
2011年対談も参照。2011年対談を踏まえて(休止発表前だったがその翌年休止になったきりなので結果的に全シングル対談になった)、そこから8年後の2019年視点でC/W、アルバム曲を追加。

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AKB48 Early Daysシングル回顧~2005-2010(序)~

今回は2009年3月4日の「10年桜」からピタリ10周年2019年3月4日に「10年桜」を更新しようという目的から逆算して過去曲回顧で取り上げたため、元から最新作付近までをやる予定ではなかった。これ以降は当面予定していない。

今回「桜の栞」までという非常に中途半端なところで終わっているが、これはリアルタイムで聞き始めたのが「ポニーテールとシュシュ」以降だったので、それ以前の1度も感想を書いた事が無いシングルまでという事で区切りにした。Early Daysという区切りも実に個人的である。

この時代は「今週のチャート」連載時だったので一応デビュー時点からグループ名は知っていた。当時既にチャートレビューはしていたがチャート番組はもう見ていなかったので曲は「会いたかった」くらいしか知らなかったが、「大声ダイヤモンド」辺りからは楽曲に勢いがあっていいという評判が高まってきていたように記憶している。07年に始めた「貴方が選ぶ音楽大賞」でも翌08年以降参加者が増えると同時にAKB48の曲がいいという投稿がけっこう多く来ていた。実際じわじわとこの時期に売上を伸ばしていき、ついにはO社1位を獲得。初動売上が加速度的に伸びていき、留まるところを知らない状態になっていったのがこの時期までとなる。

2019.2~3執筆

作詞は全て秋元康。

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AKB48

the brilliant green シングル回顧~1997-2010~

ボーカル川瀬智子、ベース奥田俊作、ギター松井亮の3人組ロックバンドとして1997年にメジャーデビュー。最初の2枚は4曲入り全英語詞マキシシングルとしてリリースしており、この2作はオリジナルアルバム未収録であった。

初の日本語詞にして当時のメイン形態であった8センチCDでの3rd「There will be love there -愛のある場所-」が大ヒットしてブレイク。1stアルバムはミリオンヒットを記録した。そこから00年まで継続して活動を行っていた

01年には川瀬智子がTommy february6としてソロ活動を開始。バンドとは全く異なる80’sサウンドと詳細なキャラクター設定をしてそれを演じるスタイルでの活動は当初シングル1枚限りのはずが予想以上の反響を得たことでアルバムリリースまでの継続した活動へと発展。当時のthe brilliant greenは3枚のアルバムが出すたび売上が低下していたが、Tommy february6は1stこそ越えられなかったものの2nd、3rdを上回るという当時のバンド以上の大ヒットを記録した。

それでもソロ活動は1年で区切りをつけてthe brilliant greenは02年に活動を再開したが、今度はthe brilliant greenが1年で活動停止になってしまい、好評だったTommy february6を再開させ、今度こそ本格始動となりプロジェクトが発展。Tommy heavenly6というオルタナティブなロックを基本としたダークサイドの人格設定まで作り出してfebruary6とheavenly6の並行してのソロ活動が延々と続いた。

放置状態となっていたthe brilliant greenは07年に10周年を機に活動を再開。08年始めにかけて3枚の新作シングルをリリースしたがアルバム制作には至らずに代わりにシングルコレクションを発売すると、またTommyソロへと戻った。

なおこの07年頃にそれまで匿名の外人作家のような作編曲のクレジットだったTommyソロのその匿名作家が全て奥田俊作だったことが明かされている。松井はさほど参加していなかったようだがそれでも一部楽曲でギターを担当していたことが判明した。

09年には事務所研音が事業整理でもしたのか、所属ミュージシャンであったthe brilliant green、Sowelu、星村麻衣を3組まとめて契約終了。3組とも事務所だけではなくソニーレーベルとの契約も打ち切りとなり、3組とも新たな事務所とレコード会社を探すことになった。Soweluはエイベックスへ(数年でフリーになった)、星村麻衣はインディーズに移動する中で、the brilliant greenは別事務所、レコード会社はワーナーへ移籍した。

移籍が完了してthe brilliant greenとして再度活動を開始したが、直後にギター松井が脱退。2人組となる。今度はオリジナルアルバム制作に行きついたが、このアルバムのブックレットでは2人ではなく、匿名性の強いダミーメンバーの外国人を常に2人と一緒に配置するという形式を取り、演奏クレジットも抜けたギターを誰が弾いているのか明記しなかった。そして結局またしてもTommyソロへ…。

13年には既に16周年であるにも関わらず“the brilliant green Tomoko Kawase デビュー15周年企画”として各名義での新作制作を発表。15周年が既に1年遅れていたようにソロでもペースが鈍化しつつあったが、このプロジェクトも当初の予定から遅延しまくりとなり、2013年中にfebruary6、heavenly6のアルバムは何とかリリースされたものの、the brilliant greenとしてのリリースは2014年になってからとなった。新作が間に合わず、セルフカバー作品となったが、この際にthe brilliant greenとしても奥田俊作はソロ同様の裏方になる事を宣言。これに伴いthe brilliant greenも最早バンドではなくなってしまい、ジャケット写真等もソロと同じで川瀬1人となった。素顔かコスプレかの違いしか無くなっ

15周年プロジェクトではそもそも当初the brilliant greenの新作を出すはずで、まずはセルフカバーをやってから新作を制作するという方針だったはずだったが2015年以降はバンドもソロも新作が一向に発表されなくなった

沈黙の中で2017年、デビュー20周年を迎えたが活動は「2017 神宮外苑花火大会」に出てきて数曲のライブを行ったのみ。これを皮切りに活動を再開してまずはベストアルバムをリリースすると当時報道されたが結局続報は何一つなく、以降も沈黙が続いている。

というわけで2015年頃からはソロでもバンドでもCDリリースが無い状態となってしまっているが、果たして次なる本格始動はあるのだろうか。Tommy名義でのブログは更新が続いていて配信でソロ名義でのかなり久々の新曲は2018年10月に両名義でされていたようだが、完全に自主レーベルになっているようだ(moraでは何故か新たなfebruary6、heavenly6欄にそれぞれ単独でぶち込まれている扱いで、過去の作品が並ぶfebruary6、heavenly6の欄に入れてもらえていないので曲名で検索しないと出てこない)。

秋冬にヒットが集中しているので過去曲回顧で取り上げるなら11月か12月頃、20周年で再開するという報道があったので2017年11~12月頃に取り上げようと思っていたが音沙汰が無いまま1年経ってしまい、このままだと2018年も終わってしまい、また1年後…とやっているとキリが無いので思い立ったこのタイミングでやる事にした。

一応公式が97年でデビューをごまかして98年起点扱いで13年を15周年にしたという前科があるので、18年は”20周年”という事で…。

2018.12執筆

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Hysteric Blue 20周年シングル回顧~1998-2003~

ボーカルTamaとドラムたくやは結成前から共に活動していたがそこに1つ年上のギターのナオキが声をかけて3人でHysteric Blueが結成されたのが97年。早速デモテープが佐久間正英の耳に止まってデビューが決定したという。年上だった事と結成時でのナオキのプロ志向が2人より強かったためか、当初はナオキがリーダーを名乗っていた(しかし徐々にたくやがバンドを引っ張る状態になっていたためかナオキが挨拶のたびにリーダーと名乗ることが無くなっていった)。

デビュー時点でTamaとたくやは18歳(ナオキは19歳)。高校3年生の年だったが、Tamaは既に高校を中退していたようでたくやだけが高校へ通っていたようだ。デビュー前後のドキュメント映像(ベスト盤の特典DVDにも収録)では、たくやだけが学校のためラジオ出演が電話出演だったり、母校が登場したりしていた。

デビュー時点でJUDY AND MARYが活動休止に突入した事と、曲によって歌声を使い分けていたがとりわけデビュー曲である「RUSH!」や「Little Trip」などでのTamaの歌声がJUDY AND MARYを彷彿とさせた事から、JUDY AND MARYのパクリとよく揶揄されていた。当時の音楽レビューサイトでも高確率でJUDY AND MARYと比較されまくっていた(軒並みJUDY AND MARYには及ばないという論調だった)。休止時のコメントでたくやは後年までこのような事を言われることを気にしていた旨を率直に打ち明けているのでよっぽどだったようだ。

99年に2曲の大ヒットを放ち、アルバムでは3作連続のトップ10入りまで果たしたものの、人気が持続せず後年は売上が落ちる一方となってしまっていた。1発屋ではなく確実に2発は当てていたわけだけど、その急落っぷりは00年の花*花もそうだったが、2発当てても定着しない時はしないという事を感じたのを記憶している。

個人的には最後まで普通に聞き続けていたものの、初期の若さと瑞々しさを後年越えられなかった感じは確かに否めない。実際3rdアルバム頃の時点でやり尽くして解散の危機に陥っていたという話をアルバムのたびにインタビューでしていたし、あまりに若くして浮き沈みを経験したためなのかまだ20代前半であった活動後期の時点で妙に貫禄が出ていた感じもあり、良くも悪くも駆け抜けたバンド活動だったようにも思う。

03年の活動休止宣言は正直売れなくなってきた(チャート50位を下回るようになった)のも少なからず影響していたと思われるが、一旦リセットしていつかまた集まろうという主旨のものであった。実際ソニー預かりだった公式サイトは休止と同時に休止中のメンバーの個々の活動も報告できるように独自ドメインで新たにオープンさせており、それぞれのコンテンツも動き出していた。

休止中はTamaは佐久間正英と共にThe Screaming Frogsとしての活動を開始、たくやは曲提供などを行い、ナオキはギターの武者修行に出るなどとコメントしていた。

しかし04年、ナオキが突如合計9人への強制わいせつにより逮捕されてしまった。クスリでの逮捕と異なり、被害者が9人に及ぶ重大な犯罪だったため懲役は10年以上に及び(2018年に出所予定とされている)、バンドは即時解散を余儀なくされた。

前代未聞のこのような事態により、解散だけに留まらず楽曲の全出荷停止は依然として解除されておらず全作品が廃盤で封印状態のまま現在に至っている。もちろん配信もされていない

佐久間正英は解散後もTamaとたくやの活動の支援を続けていたようで、2014年に亡くなる直前にも自身のイベントで2人を招いてHysteric Blue時代のヒット曲を演奏したり、2013年にTamaとたくやで結成されたSabaoでのHysteric Blueセルフカバーにも当初参加していた。最終的に2018年にTamaが体調不良で活動を休止するまでの間にHysteric Blue時代の楽曲はアレンジそのまま、演奏もほぼ再現する形で5曲がSabao ver.として再度世に出ている(もちろん全てたくや作曲)。

というわけで全曲永久封印状態のため、今回は公式な視聴リンクが一切存在しない。Sabaoセルフカバーがある5曲のみSabaoバージョンで視聴が出来るようにはしておいた…。

旧過去曲回顧で公開されていたものは全面破棄して2018.11完全新規執筆

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ステレオポニー 10周年シングル回顧~2008-2012~

AIMI(Vocal,Guitar)、NOHANA(Bass)、SHIHO(Drums)の3人で沖縄で結成されたいわゆる”ガールズバンド”ステレオポニー。08年のデビュー当時の年齢は18、19歳。また08年10月にSCANDALがEpicからデビュー、11月にステレオポニーがソニーからデビューしたため、この2組はほぼメジャーデビューが同期で同世代でもあった。SCANDALは楽器経験も浅かったこともあり当時はまだ自作ができず、実力勝負ではなく制服を武器にした提供楽曲で派手にアピール(その間に演奏力や自作能力を磨き続けて現在は自作へ移行している)したのに対して、ステレオポニーはAIMIがほぼ作詞作曲を一手に手掛けた完全自作のバンドとしてあまりビジュアル面を強く打ち出さずに硬派なロックバンドとしてアニメタイアップで中心で認知度向上を図るようなプロモーションを展開した。

結果として先にトップ3ヒットを放ったのはステレオポニーだったが、大きなヒットを出さずにうまく成長を遂げていったSCANDALはライブ規模をどんどん拡大しいつしかガールズバンドの代表を自称するような存在となった。対してステレオポニーはソニーアニメ典型パターン(アニメタイアップで売れるが自力人気がつかずやがてアニメタイアップも息切れ状態になってどんどんシュリンクしていく)に陥ってしまった。

その気になればボーカルAIMIのキュートなルックスや歌声を強く打ち出す事も出来たはずだが、そういう売り方はしたくなかったのか良くも悪くも強い”売り”をアピールせず、しかも最初期のイメージでは若さすら売りにせずに硬派・真面目なイメージ(プロデューサーの影響でYUIのフォロワー的な要素も初期はあった)で定着してしまったため、どうしても地味な印象を持たれがちだったところはあり、どうしても派手さで差がついてしまったのは否めない。また結果的にJ-POP好きとロック好きの両方を取り逃がして立ち位置が中途半端になってしまっていたところもあると思う。

やや遅れて青春感やさわやかな色を見せたり、活動後半はもっとはじけようと試行錯誤しつつもロックバンドしての逞しさは格段に増していただけに早すぎる解散が悔やまれるところだが、気が付けばデビューから10年。改めてそのシングルを振り返ってみる。

2018.11執筆

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未来玲可 20周年シングル回顧

小室哲哉プロデュースのブームの末期に突入していた98年、安室奈美恵は産休に突入して年末に復帰、華原朋美は小室との関係が急速に悪化して下手にしか歌えないような怪作を連発、globeがシングル4連続リリースを決行して、無謀なレコード大賞受賞へ向かう中で、新たな小室プロデュースがデビューした。

それが未来玲可である。

当時14歳の中学生として彗星のごとく出現し、いきなり月9主題歌に起用されるという破格の超大型新人扱いで、いきなり30万枚のヒットを記録した。
既に98年になってからの小室プロデュースはシングルでのミリオンヒットどころか50万程度がやっとだったし、月9自体も97年はどれも大ヒットしてブランドを確立していたが、98年になると初回だけ注目されてそこそこの視聴率をたたき出すが2回目以降は低迷して終わるのがパターンになってきていたのでさほどヒットしておらず、30万枚は98年当時において大ヒットではないが中ヒットくらいではあった。またトップ10に4週連続でランクインしたのもあって数字以上に98年末に流行っていた感覚もあった。

一体小室哲哉はどこで彼女を発掘してきたのか、そもそも小室哲哉が発掘したのかすら特に語られなかったし、名前もまあ普通に芸名っぽいしで存在が謎に包まれていたものの、全く表舞台に登場しなかったわけでもなく普通に「ミュージックステーション」に出演して生歌唱も披露した。

しかし終始緊張により若干泣きそうな表情で声が上ずり、曲が進むごとに上ずる回数も増えて声がヘロヘロになっていった。どうやら鋼の心臓を持つ度胸の据わった少女というわけではなく、ごく普通の14歳だったようでいきなりのTV生歌唱という途方もない緊張を考えれば当然ともいえる状況だったのかもしれない。当時視聴者に与えた衝撃は多く、ネットが発達していた時代では無かったのでリアルタイムで語られた出来事ではないにも関わらず現在も引退理由として“Mステでの失敗で自信を喪失した”と筆頭に挙げられてしまうくらいMステ出演の衝撃は伝説として細々と語り継がれているほどである。

結局このMステ出演は夢か幻か、12月に2ndシングル発売予定とCDショップの案内告知も出ていたがそのまま延期・中止になり、やがて3月になってひっそりとアルバムが発売されたがこの際の本人稼働は無くそのまま消息不明となった。

しかもこのアルバム、小室と久保こーじの連名プロデュースであったにもかかわらず小室は一切曲を書き下ろさず、内田有紀に書いた曲をカバーさせた以外は他作家へ全面丸投げ。鈴木あみの1stで見られたように小室が曲を書かない場合、アルバム曲をMARCや前田たかひろが歌詞を書いて久保こーじが作編曲を担う事で仕上げるケースもあったが、なんと久保こーじでさえ1曲書いただけ(C/W含めて2曲)。MARCは6曲の作詞に関与したがそれ以外は外部作家に丸投げしてしまう始末であった(1曲だけTMNの木根尚登の作曲はある)。小室プロデュースなのに小室が一切新曲を書き下ろさなかったというのも前代未聞だが、久保こーじでさえも…となればもう後にも先にも例が無かったのではないか…。

このように「海とあなたの物語」1発屋というか1発しか出さずに消えてしまった謎の人となった未来玲可。”あの人は今”みたいな特集で扱われたという話も聞かないし、未だにウィキペディアにも引退理由が噂レベルのものが列挙されているだけという不確かさだがそれだけ情報が無いままに一瞬で消えてしまったのである。現在は配信でも出ておらずCDも廃盤なので中古でたまに見かけるくらいしかお目にかかれない。

そんなわけで史上最短、たった1回ポッキリで終わるシングル回顧、始まって今日で最終回

2018.11執筆

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MOON CHILD シングル回顧~1996-1999~

当時新鋭のレコード会社で主にダンスミュージックを中心に手掛けていたエイベックスから初のロックバンドとして96年にデビュー。メンバーは作詞作曲をほぼ一手に手掛ける佐々木収(Vo,Gt)、渡邊崇尉(Ba)、樫山圭(Dr.)の3人組だった。3rdシングルよりサポートメンバーとして参加していた秋山浩徳(Gt)が加入して4人組となった。

97年にドラマ『FiVE』主題歌に起用された「ESCAPE」が大ヒットして一躍有名となった。続くシングル2作もトップ20ヒットとなり、2ndアルバムはトップ10ヒットを記録するも以降人気が続かず、ほぼ1発屋として扱われるようになってしまった。99年年明けには早々に解散を発表して解散してしまった。

ポストMr.Childrenとして期待されていたなどと言われているが90年代後半に出てきたV系の流れとは異なるポップロック系のバンドは割とすぐにポストミスチルとか言われがちで、そんな時代であったのでミスチルっぽいところがあったかどうかについては正直あまりそういった要素は見当たらない。ただし本人たちもその意識があったようで後期の頃にはC/Wで直接的には伏せているがポストミスチルと言われていた事に言及する歌詞が登場する曲もある。

途中までプロデュースを担当していた浦清英は当時ミスチルのサポートキーボードを担当していたという繋がりがあったため、余計言われやすいところはあったのかもしれない。また共同アレンジャーとして途中で今井裕を起用し、最終的にたどり着いたのが井上鑑という点においては同時期に活動していたBluem of Youthとも共通している。

現役時代シングル11枚、オリジナルアルバム3枚をリリースしたが、枚数の割に活動内容は非常に濃く、アルバム3作全て方向性が異なるなど90年代らしい変化の多いバンドでもあった。

またMVを見るとボーカル佐々木は毎回のようにさほどダンスミュージック的なサウンドでもないのにクネクネと猛烈に踊り狂っており、何故彼らがダンスミュージック色の強いエイベックスからデビューしたのかの答えの一端が伺える(?)。

解散発表から解散までがかなり急で、3rdアルバム発売直後のツアーがそのまま解散ライブとなった。一方で解散後のベストアルバム発売が解散から半年も経過してからだったり、何故か05年に唐突にもう1度ベスト盤を発売することになり、ジャケット撮影のためだけにメンバーが再集結、シングル『アネモネ』のジャケットと全く同じ構図で『COMPLETE BEST』のジャケットが撮影されたりと、解散後にもリリースやメンバーが集結する動きは少なからずあった。

佐々木收と渡邊崇尉は解散直後にSCRIPTを結成。休止や移籍を挟みながらも2010年代前半頃まで活動していた。SCRIPTはエイベックスではなかったが、佐々木は石田匠と組んでRicken’sというユニットでも一時活動しており、そちらはエイベックス所属であった。この縁もあって佐々木とエイベックスとの繋がりも続いていて主にエイベックスの所属ミュージシャンへの提供活動も行っていた。この頃にはササキオサム名義になっていて、ソロでもこの名義でライブを行っていたようだ。

大塚愛が主演した『東京フレンズ』で大塚愛の相手役だった瑛太が引き抜かれて加入したメジャーデビュー間近の人気バンド「フラワー・チャイルズ」はRicken’sが演じており、演技シーンはほとんどなかったがライブをしている姿が作中に登場する(ただしスキャンダルにより超失脚してメジャーデビューの話が立ち消えになって物語から消えるバンドという役どころであった)。個人的に解散以降10年ぶりくらいに久々に佐々木収が予想だにしない映画の作中で出てきて驚いたが、その顛末にもっと驚いた。

2013年にはMOON CHILD再結成を発表。この際はデビュー当時の3人となっていて秋山は不参加だった。ライブは盛況だったようで公式サイトも制作されていたことから当初は継続的な活動も視野にあったものと思われるが、直後に佐々木が原因不明のめまいにより活動休止を発表するなど体調がおもしわくない状態が続いたようで、気が付けば公式サイトも消滅してしまい、MOON CHILDの活動も無くなっていた。

すっかり忘れかけた2017年になって突如同じ1度解散を経て復活したエイベックスのバンド同士という共通点を持つDo As Infinityとの対バンが行われて再度復活。この際には秋山も参加して4人が揃ったという。以降は再び活動は無く、ソロ活動へ戻っていたが、2019年には2年ぶりに復活して再びDo As Infinityとの対バンが行われることが発表されている。

2018.10執筆

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